2011年12月9日金曜日

槙谷美貴子とカレーライスの歴史

こんにちは。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」です。今回も槙谷美貴子が気になった歴史を、ここに書かせていただきますね。宜しくお願いします。
今回は、カレーライスの歴史について。詳しい沿革があったので、引用させていただきます。

1863年(文久3年)、江戸幕府の遣欧使節の三宅秀が、船中でインド人が食事する様子を見て「飯の上へ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と日誌に記している。
1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。
1872年(明治5年)、カレーライスのレシピを記した本「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。
1873年(明治6年)、陸軍(幼年生徒隊)食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の洋食食堂「風月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。
1908年(明治41年)、帝国海軍が配布した「海軍割烹術参考書」にカレイライスのレシピが載る。
1910年(明治43年)、帝国陸軍が配布した「軍隊調理法」にカレー汁(およびライスカレー)のレシピが載る。
1924年(大正13年)、東京・神田の簡易食堂「須田町食堂」が、初めて廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せる。
当時の大卒初任給70円、日雇労働者日当1円63銭
1926年(大正15年)、「浦上商店」(現:ハウス食品)が、カレールウ「即席ホームカレー」を発売。翌年、商品名を「即席ハウスカレー」に変更。
1927年(昭和2年)、東京の「新宿中村屋」「資生堂パーラー」が、高級カレーライス(80銭、50銭)をメニューに載せる。
1929年(昭和4年)、大阪・梅田の「阪急百貨店」の大食堂が、廉価(25銭)でライスカレーを販売。
1930年(昭和5年)、山崎峯次郎(エスビー食品の創業者)が、「ヒドリ印カレー粉」を発売。
1931年(昭和6年)、「C&Bカレー事件」発生。イギリスのクロス・アンド・ブラックウェル (C&B) 社のカレー粉は、品質がよいとされていたが値段が高く、増量材を混ぜたり中身を国産品に詰め替えた安価な偽物が出回った。これは日英間の国際問題にまで発展し、偽造グループが逮捕された。
1941年(昭和16年) - 1945年(昭和20年)、戦争による食料統制のため、軍用以外のカレー粉製造・販売が禁止された。また、陸軍ではライスカレーのことを「辛味入汁掛飯」と言い換えるようになった。
1946年(昭和21年)、終戦によりカレー粉の製造・販売が再開された。
1949年(昭和24年)、浦上商店がカレールウ「即席ハウスカレー」の製造を再開。
1954年(昭和29年)、エスビー食品が即席カレールウ分野に進出。
1960年(昭和35年)、ハウス食品工業株式会社(旧浦上商店)がカレールウ「ハウス印度カレー」を発売。以後、インスタントカレールウの主流は固形タイプになる。
1969年(昭和44年)、大塚食品、初のレトルトカレーソース「ボンカレー」を発売。
1982年(昭和57年)、全国学校栄養士協議会が1月22日を「カレーの日」と決め、全国の小中学校で一斉に「カレー給食」を出す。以後この日が、「カレーの日」とされている。

カレーライスの歴史、面白いですね。
何だかカレーが食べたくなってきました(笑)それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年12月5日月曜日

時計の歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です、こんにちは!「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」、今日も始めさせていただきますね!宜しくお願いします!
今回は時計の歴史についてお話させていただきますね。

現在使われている六十進法の時間単位は、紀元前約2000年にシュメールで考えられたものだそうです。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源と言われていますね。彼らはルクソール近郊にあるアメン=ラーの地でおそらく最初に使われたとされる水時計も作っているのだとか。水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれをクレプシドラの名で呼んでいたようです。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が発明されていたそうです。この水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものと考えられているようですね。その他、中国、日本、イギリス、イラクではロウソク時計も使われていて、インド、チベット、一部ヨーロッパでは日時計が広く使われていたそうです。他に、砂時計も使われていたようですね。初期の時計は日時計が多く、曇りや夜には使うことができなかったのだそうです。最もよく使われた日時計はグノモンと呼ばれる形のものだったそうですが、あくまで日時計なので緯度で値が変化したみたいですね。
時計に脱進機(歯車を一定方向に回す装置)を初めて用いたのは8世紀の中国で、水時計にギアとおもりを組み込んだのは11世紀のイスラム教徒だったそうです。脱進機に王冠歯車を用いたのは14世紀のヨーロッパ、16世紀にゼンマイ式の懐中時計ができ、18世紀に振り子時計ができるまで長い間使われていたのだとか。20世紀になると、クオーツ時計、さらには原子時計へと置き換わっていきますね。クォーツ時計は作るのが簡単で正確なので、腕時計によく使われています。原子時計はこれよりもはるかに正確なので、国際標準時間「国際原子時」をきめるのに使われているのだとか。原子時計は協定世界時にも使われているようですね。

時計について、面白いですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年11月22日火曜日

宇宙の歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です結構お久しぶりですね
今日の槙谷美貴子の歴史ブログは宇宙の歴史と槙谷美貴子というわけで、宇宙の歴史と槙谷美貴子について説明していきます

宇宙の年表(うちゅうのねんぴょう)は宇宙で起きた出来事の年表であり、ビッグバン理論を中心に他の科学理論も交えてまとめたものである。

宇宙の歴史、宇宙の展開、宇宙の進化などとも表現されるものである。

観測によれば、宇宙はおよそ137億年前[1]に誕生した。それ以来宇宙は3つの段階を経過してきている。未だに解明の進んでいない最初期宇宙は今日地上にある加速器で生じさせられるよりも高エネルギーの素粒子からなる高温の状態であり、またほんの一瞬であったとされている。そのためこの段階の基礎的特徴はインフレーション理論などにおいて分析されているが、大部分は推測からなりたっている。

次の段階は初期宇宙と呼ばれ、高エネルギー物理学により解明されてきている。これによれば、はじめに陽子、電子、中性子そして原子核、原子が生成された。中性水素[2]の生成にともない、宇宙マイクロ波背景が放射された。

そのような段階を経て、最初の恒星とクエーサー、銀河、銀河団、超銀河団は形成された。

宇宙の終焉については、さまざまな理論がある。

最初期の宇宙に関係する概念はいきおい推論がちになる。現在のところこの時代に新たなる知見をもたらすのに十分な規模の加速器による実験は行われていない。多くのシナリオ案は根本の部分に意見のあわない部分がある。例えば

ハートル=ホーキングの境界条件(en:Hartle-Hawking state)
弦風景(en:String theory landscape)
ブレーンインフレーション
弦ガス宇宙論(en:String gas cosmology)
エキピロティック宇宙論(en:Ekpyrotic)

など。補完し合う理論もあるがそうではない理論もある。

槙谷美貴子としては宇宙のことはよくわかりませんね(^ω^;

2011年10月25日火曜日

現代社会に欠かせない携帯電話

槙谷美貴子です。
皆様、こんにちは。

今日は、現代社会には欠かせない誰しもが持っている「携帯電話」の歴史を
調べてみました。

第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用したモトローラ製の「Walkie Talkie」が、前身といわれる。しかしこれは、回線を使用していないトランシーバーである。

携帯電話の構想は、電話機が考案されて間もない頃からあった。電波を使用して無線で通信でき、かつ人間同士が音声にて会話することが夢として描かれていた。
モールス符号を用いる無線電信機は携帯電話の元になる技術だが、実用化されても爆発的に普及するようになるものだとはこの時点では考えられていなかった。

また、携帯できる電話を開発する具体的な研究は古くから行われてきたが、電波のノイズの問題やバッテリーの問題、また通信速度などの多くの問題により電話機が非常に大型になってしまうため、実現は難しかった。

1960年代になると、両手で持ちながら会話できる程度まで小さくすることが可能となった。しかし、短時間の通話でも疲れてしまうほどに重かった。
1970年代になると頑張れば片手で持てる程度の大きさまで縮小することができた。これは1970年に大阪で開催された日本万国博覧会にワイヤレスホンとして出展された。
これは、今で言うコードレスフォンである。1980年代になると事業として成立するようになり、一部の先進国で車載電話機(自動車電話)として携帯電話機の販売、及びサービスが開始された。この頃は固定電話機と比較すると導入価格、通信費用は共に数十倍であり、また通信エリアも都市部に限られていたため、よほどの理由が無ければ導入できなかった。1978年、“AT&T”と「モトローラ」に実用化実験許可がおりる。1979年、日本において世界で初めて実用化される。
1981年、バーレーンとスカンディナヴィアで実用化。遅れをとったアメリカもレーガン大統領へのモトローラからの直訴により1981年、実用化がなされた。

1990年代になると普及が進み、本体に液晶ディスプレイが搭載され始めた。1990年代半ばには通信方式がアナログからデジタルへと移行し、着信音に好みの音楽が設定できる着信メロディや、ポケットベルと連帯したメッセージサービスが使用できるようになった。
1990年代後半にはインターネット網への接続が可能となり、通信速度が向上し、画像やJavaを使用したゲームなどの利用が可能となった。

2000年代に入ると第三世代携帯電話が登場し、テレビ電話が可能となったほか、パソコンと接続して高速なデータ通信が行えるようになった。
また発展途上国でも爆発的に普及し始め、英調査会社、“Informa Telecoms & Media”の2007年11月29日(英国時間)の発表によれば、世界全体での普及率が5割に達した。

槙谷美貴子が使用している携帯はiphoneなのですが、昔は携帯電話が作られることさえ想像できなかったのに、今となってはこんな便利な機能がついた携帯電話が作られていますもんね。
iphoneは、色々と便利な機能がありすぎて、プライベートがないなぁと思う時が時たまありますが(笑)まぁこれからどんな携帯電話が作られていくのか楽しみですね。

槙谷美貴子

2011年10月17日月曜日

槙谷美貴子と掃除機の歴史

槙谷美貴子です、こんにちは。今回槙谷美貴子が調べてきたのは、掃除機の歴史についてです。よろしくお願いします。
世界最初の真空掃除機は、1868年にシカゴのアイヴス・マガフィー(Ives W. McGaffey)によって発明されたみたいですね。原理は、手でレバーを引いて真空を作り出し、ノズルからゴミを吸い取って容器に溜めるという簡単なものだったそうです。彼は1869年6月8日にこの特許を取得し、ボストンにあるカーペット清掃会社に売り込むことに成功したのだとか。こうして誕生した世界最初の真空掃除機がシカゴとボストンで発売されたんですが、当時としては$25もする高価なものであり、ノズルをゴミに当てながらいちいち手でレバーを引くのが面倒という欠点のため、やがて市場から姿を消していったのだそうです。
1876年、ミシガン州グランドラピッズのメルヴィル・ビッセルは妻のためにじゅうたんの上のおが屑を掃除するための掃除機を作りました。間もなく、Bissell Carpet Sweepers として製品化。メルヴィルが1889年に亡くなると、妻のアンナが社長となり、当時最も強いビジネスウーマンと呼ばれるようになったのだそうです。1899年には電動機駆動の掃除機をジョン・サーマンが発明します。Bissell社は今も掃除機を含む掃除用品のメーカーとして存続しているそうですね。
最初の電気式真空掃除機は、1901年にイギリスのヒューバート・セシル・ブース(Hubert Cecil Booth)が発明したもので、布フィルターを備えていたのだそうです。彼は列車の座席から塵を吹き飛ばす装置のデモンストレーションを目にし、塵を吸い取った方がずっと役立つと考えたんですね。そのアイデアを試すため、彼はレストランの椅子の上にハンカチを広げ、それを自分の口で吸いつけ、さらに塵を吸い付けてみたのだとか。塵がハンカチの下面に集まったのを見て、彼はそのアイデアがうまくいくと確信したのだそうです。ブースは Puffing Billy と名付けた大きな装置を作ります。石油を使った内燃機関を動力源としていたが、後に電動機を使うようになったそうですね。掃除すべき建物の前まで馬で引いていたみたいです。
そうやって電気式真空掃除機が様々な改良を加えられて、今私たちのよく知る掃除機になったんですね。
それでは今日はこの辺で。失礼します。槙谷美貴子でした。

2011年10月6日木曜日

たばこの歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」、今日も始めさせていただきます。
今回はたばこの歴史についてです。
タバコはナス科タバコ属 (Nicotiana) の一年草で、大規模に栽培されるものは N. tabacum と N. rustica の2種に限られているのだそうです。N. tabacum はニコチン含有量が高いため、商業的に価値があるのはこちらなのだとか。もう一方のN. rustica は寒さに強いとされています。この2種の他にもこれまでに全部で66種が確認されておりまして、そのうち45種が南北アメリカ大陸とその周辺部に生育していたのだそう。そのことから、タバコ属植物誕生の地はアメリカなのではと考えられているようです。
1492年、“黄金の国”を目指したコロンブスが、新大陸(=古代アメリカ大陸)のカリブ海沖にある諸島=西インド諸島の1つであるグアハニ島に上陸し、先住民のアラワク族に友好のしるしとして鏡とガラス玉を贈りました。それに対しアラワク族は珍しい食物や果物などと一緒に香り高い乾燥した葉=「たばこ」の葉を贈ったことが、ヨーロッパの人間が「たばこ」に接した最初の瞬間といわれているのだそうです。アラワク族がたばこを喫煙しているところを発見したのも、このときだったのだとか。
そこから、ヨーロッパに広まり後に全世界に広まったのだそうです。
たばこの歴史、調べてみると面白いですね。
広まった経緯なども色々あるみたいですから、また機会があればより詳しく調べてみたいと思います。
それでは!槙谷美貴子でした。

2011年9月30日金曜日

槙谷美貴子と伝書鳩の歴史

こんにちは槙谷美貴子です。
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ 」では
槙谷美貴子が気になった歴史のことなどを調べて
お話するブログです。

伝書鳩の歴史は非常に古く、紀元前約5000年のシュメールの粘土板にも使用をうかがわせる記述があるという。確実な記録では、紀元前約3000年のエジプトで、漁船が漁況を知らせるために利用していたらしい。このころのエジプトでは、様々な鳥で通信することが試みられたが、人によく馴れて飼いやすく、飛翔能力、帰巣本能に優れるカワラバト(ドバト)が選ばれ、定着したようだ。ただ、この当時ハトは主に食用として飼育されており、伝書鳩としてはあまり広く使われていなかった。また、ギリシャのポリス間の通信に使われた。特に各ポリス代表が参加して行われた競技会の覇者は、鳩の足に赤いリボンを結び付け、故郷への勝利と栄誉の便りとした。ローマ帝国で通信手段として広く使われ、各地に広まった。


ローマ帝国以降は主に軍事用の通信手段として広く使われ、産業革命期以降に最盛期を迎えた。第二次世界大戦時のイギリス軍は約50万羽の軍用鳩を飼っていたという。第二次大戦中は伝書鳩が広く使われたため、ドイツ軍は対抗手段として、タカを使って伝書鳩を襲わせた。また、近代になって報道機関が発達すると、通信用に使われた。例えば、1850年のロイターの創業時は伝書鳩が主な通信手段だった。この当時、最速の通信手段は伝書鳩だったのである。

日本には、カワラバトは飛鳥時代に渡来していたものの、伝書鳩として利用されるのは江戸時代になってからである。この伝書鳩は輸入されたもので、京阪神地方で商業用の連絡に使われていた。1783年に大阪の相場師・相屋又八が堂島の米相場の情報を伝えるために伝書鳩を使ったのを咎められ、幕府に処罰された。明治時代に入ると、軍事用として伝書鳩が本格的に様々な系統の品種が輸入され、飼育されていった。有名な系統に南部伯爵が導入した南部系などが現存している。それと同じくして、民間でも報道用・趣味として飼育することが増えていった。新聞各社が集まる東京の有楽町には、屋上に鳩小屋が作られるほどだった。第二次世界大戦に入ると、食糧難・軍用に献納されるなどで民間の飼育者は一時的に減ったが、戦後になると飼鳩は若年層の間でブームとなり、1964年の東京オリンピックの開会式での放鳩行事の影響もあり、1969年ピークに達した。この年の年間脚環登録羽数は400万羽弱に達した。その後、漫画「レース鳩0777(アラシ)」等の影響で一時的なブームがあったものの、漸減傾向にある。また、1970年代を境に、鳩レースの平均帰還率は明らかな低下傾向を辿り、数千羽規模の登録レースでも、最終レースを待たず全滅することが各地で頻発している。それは日本に特有の現象で、原因の探求がされているものの、はっきりしたことはわかっていない。主に猛禽類の大増殖説・携帯電話の電磁波影響説(1990年代後半からいわれるようになってきた)・育種上外来種偏重かつスピード重視の改良が横行した結果の3つが言われている。また、新型インフルエンザ発生地域のレース自粛等、新しい問題も起きており、日本の飼鳩環境はますます厳しくなっている。

1983年、英国で少女が誘拐され、犯人が身代金の受け渡しにダイヤモンドを伝書鳩に付けて飛ばすように指定した事件が発生した。しかし、この伝書鳩は王立伝書鳩協会の脚環を装着したままだったため、標識から身元が割れた犯人は逮捕され、人質の少女は無事保護されたそうです。
この事件で犯人逮捕の有力な手がかりとなった伝書鳩は、その功績を認められ、同協会が引き取り、末永く幸せな生涯を全うしたそうです。


鳩の帰巣本能はすごいですね。確実な記録では、紀元前約3000年のエジプトからとは……驚きました。
日本では江戸時代からなんですね。こんなに古いとは思いもしませんでした。興味深いですね。

それでは今回はこの辺で。

2011年9月9日金曜日

化粧の歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です!こんにちは。
今日は化粧の歴史について、調べたので、槙谷美貴子がお話させていただきます。
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が塗られていることから、顔に赤土を塗ることが当時の風習であり日本の化粧の始まりで、魔除けのために顔に紅殻(ベンガラ:酸化鉄)を塗る“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進入を防ぐ色とされていたそうですね。
その後、6世紀初頭に始まった遣隋使、遣唐使や中国や朝鮮からの渡来人などにより文字を筆頭に種々の文化、文物の伝来と共に身だしなみ、化粧品、化粧法なども伝えられて魔除けから日本の伝統化粧の始まりとなりましたのだそうです。
化粧は最初、埴輪の顔面に塗られたことから始まったんですね。口紅や頬紅で赤が多いのにも納得がいきました。
化粧の歴史、面白いです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年8月29日月曜日

槙谷美貴子と口紅の歴史

槙谷美貴子です。こんにちは。
前回のマニキュアに引き続き、今回は口紅の歴史について槙谷美貴子が調べてきました。

口紅(くちべに、lipstick)は、人がメイクアップをする際、唇を彩るために使われる化粧品の一種。多くは、スティック状である。

約7万年前に、悪魔などが口や耳などの穴から進入してこないよう、赤色の物を塗る習慣があったのが始まりと言われている。これは、出土した当時の人骨の口などに赤色が付着している痕跡があったため判明した。別の説では、紀元前3000年頃のエジプト人が使用したと思われる口紅が発見され、紀元前1200年頃のエジプトで、人々が目や唇に化粧している絵画も発見されている。

■口紅の効果
現代において、化粧のうちでも重要な要素とされ、色、質感などが重要である。光沢も重要であり、光彩を放つパールやラメが混入されていることがある。
保湿機能などが付加され、冬期の乾燥した環境下でも使用できる製品が開発されている。
夏期には紫外線防止効果のあるものも選ばれる。

今は口紅よりリップを使っている女性の方が多いような気がしますが。。
どうなんでしょうかね?

槙谷美貴子



2011年8月22日月曜日

槙谷美貴子とマニキュアの歴史

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日槙谷美貴子はマニキュアの歴史について調べてみました。

マニキュア(manicure)とは化粧の一種。手の爪を塗装すること。また、それに用いる化粧品としての塗料のこと。美爪術、爪化粧ともいう。

足の爪に施す場合はペディキュアと呼んで区別する。

manicure (マニキュア)という言葉の語源は、ラテン語で「手」を意味する manus と「手入れ」を意味する cura が合わさったものである。つまり本来は「手の手入れ」という意味で、ネイルケア全般を指す語であった。 ちなみに「ペディキュア」も「足」を表すラテン語 pes(語幹 ped-) + cura が語源である。

爪に着色をする文化は古代エジプトにはすでにあったとされているが、現在のようなマニキュアが生まれたのは1950年代のアメリカで、自動車用などのラッカー塗料の発明と同時期である。

日本にも、平安時代に生まれ、江戸時代では爪紅(つまべに)と呼ばれており、ホウセンカの紅い汁を爪にこすりつけることが行われていた


槙谷美貴子もたまに気分転換がてらマニキュア塗りますね。
最近ではネイルアートにも興味を持っています。フレンチネイル可愛いですよね。

2011年8月8日月曜日

ネットの歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日槙谷美貴子はネットの歴史について調べました

○1960年、インターネットの前身ARPANETに直接影響を及ぼした概念であるJ・C・R・リックライダーのタイムシェアリングシステムが発表。

○1969年10月29日、UCLAとスタンフォード研究所(SRI)間で接続され、同年12月5日までにUCサンタバーバラ、ユタ大学が接続され4つのノードとなる。

○1983年、ARPANETがプロトコルをそれまで利用していたNetwork_Control_ProgramからTCP/IPに切り替える。

○1984年9月、村井純が慶應義塾大学と東京工業大学を接続。同年10月に東京大学が接続され、日本におけるインターネットの起源となる。(JUNET)

○1985年、アメリカの「全国科学財団」による学術研究用のネットワーク基盤NSFNetが作られ、インターネットのバックボーンの役割がARPANETからNSFNetへ移行する。

○1988年、アメリカで商用インターネットが始まる。1989年、商用ネットワークとNSFNetとの接続が開始される。

○1990年、スイスの素粒子物理学研究所・CERNの研究員であったティム・バーナーズ=リーは、当時上司だったロバート・カイリューらの協力によりWorld Wide Webシステムのための最初のサーバとブラウザを完成させる。

○1994年7月、アメリカ・タイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」という記事が掲載される。ARPANET立ち上げ時のIPTO責任者であったロバート・テイラーは、この記事に対して事実とは異なる旨、正式な抗議をタイム誌に対して行った。以降、ARPANETは核戦争時のための軍事ネットであるという俗説が流布するようになる。

○1995年には、NSFNetは民間へ移管され、Windows95の登場で一般個人でのインターネットの利用に加速がつく。なお、Windows95の初期バージョンではインターネット関連の機能は「Microsoft Plus!」による拡張機能とされていたが、OSR2以降は標準搭載されている。

以上、ウィキペディアより引用させていただきました。世界的に常時接続環境が提供されているのは都市部が中心で、地方や離島での情報格差が問題になっているそうですね。また、発展途上国では多くの国民にとって端末であるパソコンが高価であり通信料金も高いため、インターネットカフェがインターネットの普及を支えているのだそうです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年8月1日月曜日

缶コーヒーの歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日も色んなものの歴史についてお話させていただきます。今日は缶コーヒーについて。
缶コーヒーが出来る前は、コーヒーは駅などで瓶に入れて販売されており飲み終わったら瓶を返却していたみたいですね。しかし、創業者の上島忠雄さんは列車の発車に間に合わず飲み残しのまま売店に返却したことをひどく痛んで、何かいいものはないかと模索した中で加藤顕さんの「缶に入れてはどうか?」とのアイデアを生かし発売に至った…のだとか。
話によると、1980年までは250mg缶が主流だったそうです。その後、190mgは量が少なくしたことで美味しさをアピールしたことが受けたため、爆発的にヒットしたのだとか。それ以降どの会社でも缶コーヒーはショート缶という定説になったみたいですね。同じ頃、缶コーヒーの蓋の散乱が問題視されて飲み口が分離タイプの「プルタブ」から「ステイオンタブ」へ変更になります。
因みに、現在の販売量の順位は1位ジョージア、2位ボス、ワンダ、ファイアーとなっているみたいですよ。

2011年7月20日水曜日

紙幣の歴史と槙谷美貴子

こんにちは!槙谷美貴子です!
少し時間が空いてしまって申し訳ないです。今日も、槙谷美貴子が興味を持ったものの歴史について、お話させていただきますね。
今回お話するのは、紙幣の歴史です。
本来貨幣は貴金属など普遍的な価値を持つ財貨そのもので、昔から王侯がコインの鋳造権を独占して市場に流通させていたのだそうです。これらの貴金属による貨幣は運搬に不便であるだけでなく、摩耗による減価の問題もあったため、次第に貴金属との交換を保証された債務証書(手形)に置き換わっていったんですね。これが紙幣のはじまりなのだそうです。

世界初の紙幣は宋代に鉄銭の預り証として発行された交子みたいですね。ヨーロッパでは、民間の銀行が発行した金銀の預り証である金匠手形 (Goldsmith's note) が通貨として流通していたそうですが、国家による承認を受けたものとしては1661年にスウェーデンの民間銀行・ストックホルム銀行が発行したのが、銀行券としては最初のものだそうです。また、1694年には英国でイングランド銀行が設立され、同行の約束手形が発行されたのだとか。同行の約束手形は当初手書きだったみたいなんですが、のちに印刷に改められたことにより、交換手形として広く流通し始めたみたいですね。イングランド銀行は1844年のピール銀行条例によって英国唯一の発券銀行とされました。
近代になって、金本位制(または銀本位制)が確立し、本位貨幣たる金貨や銀貨又は銀行に保管する金地金等と交換ができる紙幣は兌換紙幣と呼ばれ、券面にはそれらの記載があったそうです。例えば、アメリカでは、ブルーシールの兌換銀券とイエローシールの兌換金券があったみたいですよ。
しかし、1929年の世界恐慌以降、財政・金融政策が困難になるなどの理由から各国で金本位制を廃止し、管理通貨制度へ移行、多くの国の紙幣は兌換紙幣から正貨との交換が出来ない不換紙幣となってしまいます。普遍的な財貨である金銀との交換価値が失われた紙幣は、時に政府による濫発や中央銀行による国債大量引き受けなどでハイパーインフレを引き起こしたそうですが、中央銀行による不断の通貨安定政策により一定の信頼を得て、中心的な法貨として国民生活に広く流通していますね。

紙幣の歴史、写真も一緒に見ると本当に面白いですね。暇なときにでも検索してみると、いい暇つぶしになると思います。
それでは今日はこの辺で。失礼します。槙谷美貴子でした。

2011年7月7日木曜日

現代英語と槙谷美貴子

こんにちは!「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」の、槙谷美貴子です。今日は近代英語までで止まっていた英語史の歴史の、最後、現代英語についてお話させていただきます。よろしくお願いします。
20世紀になりますと、イギリスが世界覇権を握るに従い、英語話者の人口が増大することとなります。世界各国からの語彙の流入も継続し、日本語からは tsunami、manga、kamikaze などが辞書に登録されるようになったみたいですね。
アメリカではアフリカ系移民が生み出した歌唱的要素を豊富に含む黒人英語が成立しました。この黒人英語と、アメリカ原住民の言葉、移民たちが持っていった近代英語がアメリカ英語(米語)を成立させたのだとか。米語は英語の方言であるが、分離後400年をへて、その隔たりはかなり大きいものとなっているのだそうです。
黒人英語には jitter、bogus、yam などがありますが、その中でも都会に住む黒人を中心に使われている口語は、流行語・歌唱語としてアメリカや、さらに世界中に影響を与えることがしばしばだそうです。
離島などでは古い語彙が残りやすいそうなんですが、アメリカもその例に漏れず、fall(秋)、quit(止める)、trash(ごみ)などの言葉、用法はイギリスではかつて存在しましたが、現代ではもう使われていないのだとか。また、イギリスでの意味・用法からずれ、発展していった言葉もあるのだそうです。
また、アメリカで使われる英語の特徴として、品詞を変えて使用したり、長単語の代わりに熟語を使ったりするなど、簡略化の傾向が見られるみたいですね。
アメリカの覇権が確立すると共に、アメリカ式の英語の影響力は強まり、現在では逆に英語(イギリス英語)にも影響を与えるようになっていますね。
以上、英語の歴史でした。
それでは今日はこの辺で。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」の、槙谷美貴子でした。

2011年7月6日水曜日

槙谷美貴子の歴史好きのブログ【チーズ好きの槙谷美貴子が語るチーズの歴史と槙谷美貴子のこと】

槙谷美貴子です、こんにちは

今回はチーズの歴史を紹介しようと思います

ヨーロッパにおけるチーズの歴史

チーズ発祥の時期や場所ははっきりとした記録や資料がないので不明ですが、ルーツは意外にもヨーロッパでなくアジア(モンゴル)と言う説が有力だそうです。

しかし、モンゴルで作られていたチーズは、加熱濃縮して凝固させる硬質チーズ(ホロート)や、酸で凝固させる軟質チーズ(ビヤスラグ)です。それに対し、酵素で乳を凝固させる方法で作るチーズがアジアから中近東、トルコ、ギリシャを経てヨーロッパに伝わりました。
これが現在私たちがごくふつうに食べているチーズのルーツだそうです。

ギリシャ神話には(B.C.1000~1500年)ギリシャの代表的なチーズ、フェタの記述があるし、イタリアのパルメザン、ゴルゴンゾーラもB.C.1000年頃には存在していたそうです。
その後ローマ帝国がヨーロッパに勢力を拡大し、スイス、フランス、オランダへとチーズ作りも伝わっていきました。そしてそれぞれの土地の風土や気候の違いで個性の違ったチーズが生まれたのです。

日本でのチーズの歴史

日本では6世紀に大和朝廷が百済から乳製品を献上されたとの記述があり、平安時代に朝廷で乳が栄養食品として珍重されていましたが、朝廷の力が衰えた鎌倉時代以降は乳はほとんど利用されなくなりました。
明治時代に入り一般国民に牛乳をはじめとする乳製品が普及するようになったのです。

チーズが初めて製造されたのは明治8年(これは試製されるにとどまった)。
明治33年には函館のトラピスト修道院で製造が開始されました。しかし本格的な量産が始まったのは昭和7年、雪印乳業(当時は北海道製酪組合連合会)と明治乳業がプロセスチーズを量産しはじめたことからです。

両社はプロセスチーズの原料となるナチュラルチーズの製造技術の確立も同時に継続し、雪印はゴーダチーズの、明治はチェダーチーズの製造を主にして行きました。
そして戦後、食生活が西洋風に変化して学校給食にもチーズが登場するようになって確実にチーズが生活に浸透していきました。けれど私が子供の頃はプロセスチーズばかりでナチュラルチーズなどは店先ではめったに見られませんでした。
チーズと言えば6Pチーズや蒲鉾状の雪印の黄色い、牛の絵のついた箱に入ったプロセスチーズ、スライスチーズ、良くてピザ用のとろけるチーズなんかでした。
しかし実は、国産チーズがすべてプロセスチーズばかりだったわけではなく、前記のゴーダ、チェダー以外にもブルーチーズ(昭和25年 雪印)やカマンベールチーズ(昭和34年 明治)を開発、販売していますが、当時ではどうやらまだ時期尚早で受け入れられなかったようです。

今現在は多くの会社や農場が多種多様のチーズを生産しています。

チーズのタイプ別の説明
白カビタイプのチーズ

表面が白カビで覆われたカマンベールチーズなどを代表とする軟質のチーズ。チーズの原料は牛乳で、熟成期間は他のタイプのチーズに比べたら短いほうです。
この白カビはチーズが作られる過程で人為的にカビの胞子を表面にスプレーします。中身はクリーミーで未熟なうちは白っぽい芯があり熟成するにつれだんだん黄みも増してきてトロリと流れ出すほどやわらかくなります。
熟成がちょうど良いとたいへんコクがあっておいしいのですが、進みすぎると苦みが出るし、表面もカビが枯れて固く汚い感じになりまずくなります。チーズをあまり食べたことのない初心者だと思われる人はこのタイプのチーズがくせもなくやさしい味わいなのでおすすめです。

青カビタイプのチーズ

チーズの内部に青カビが繁殖し、大理石模様のような様相でブルーチーズと呼ばれています。
原料は牛乳や羊乳で、チーズを熟成させる前に内部に青カビ(薬のペニシリンを作るカビの仲間)を繁殖させ、このカビによってチーズの熟成がすすみます。ですから、白カビのチーズと違い中心部から熟成がすすみ外側に向かうほど熟成が遅れます。
世界三大ブルーチーズとしてフランスのロックフォール、イギリスのスティルトン、イタリアのゴルゴンゾーラが有名ですが、歴史も古くロックフォールは約2000年も前から作られています。
食べ慣れない人は、見た目もちょっとグロテスクで、カビをそのまま食べるというのにも抵抗があるようですが、慣れてくるとかび臭さとチーズのコクや滑らかさが不思議とやみつきになってきます。塩味がきついのでほぐしてサラダにかけたり、牛乳やクリームでのばしてディップにしてもいいです。

山羊乳のチーズ(シェーブル)

小さな円筒形や手のひら大のピラミッド型、黒く灰のまぶしたものなどちょっと風変わりな形をしています。
豊かな牧草のない山岳地帯などで発達しました。歴史も古く、牛乳から作るチーズが作られる以前から作られていました。
山羊の乳は高地の栄養分の凝縮した草を食べるので、質の良いたんぱく質でコクがあり風味もあります。まだ食べ慣れない日本人にとっては、牛乳から作るチーズと比べるとはるかに違う独特の風味があり、酸っぱいような渋いような、あっさりしているようなコクがあるような、とても繊細な味わいです。
熟成段階においても味が変わり、若いものはボソボソとして酸味がありますが、熟成するにつれクリーミーになりコクも増してきます。山羊は1~3月に子供を産みその後7月頃まで乳を出します。ですからシェーヴルチーズの旬は春から秋にかけてですが、最近では冷凍技術を駆使して年中作られるようになりました。

ウォッシュタイプのチーズ

外皮がオレンジ色で、強い匂い(はっきり言って納豆系の腐ったようなにおい)がしています。
チーズの外側に植えつけられた菌が、繁殖してねばねばとするのを抑えるために、塩水やその地方の地酒(例えばシードルやカルバドス)で外皮を洗いながら熟成させます。中世の修道院で作られはじめました。
外皮を洗われることにより外側は固くなり強烈な香りがしますが、中側は柔らかくたいへん風味豊かなコクのあるチーズで、内と外とでは大違いの印象です。このチーズの特徴は、なんと言っても“におい”なので、これに慣れなくてはなかなかおいしくいただくことができませんが、塩辛や古漬けをおいしいと思える人であれば問題はないでしょう。

ハード・セミハードタイプのチーズ

ふつう店頭には適当な大きさにカットされてならんでいますが、このタイプのチーズは大きいものでは数10キロと巨大なものもある大型のチーズです。
プレス器で強く圧力をかけることによって水分を抜き、長期間かけて熟成させるので硬質で保存のきくチーズになります。
もともと山深い地方の冬場の保存食として重宝されていたそうです。固さの点でハードタイプとセミハードタイプとに分けられます。これらのチーズはテーブルチーズとしていただくほかに、パルメザンに代表される超ハードタイプのチーズはおろして料理の調味料としても用いられていますし、スイスのエメンタールやグリュイエールはあたためてとかしてチーズホンデュの材料としたりと、幅広い楽しみ方があります。

フレッシュタイプのチーズ

熟成をさせる以前のチーズを総称してフレッシュタイプのチーズと呼びます。
どれも真っ白で酸味があってヨーグルトとチーズのかけあわせのような口当たりです。日持ちがしないのも特徴なのですが、保存性の良い容器の開発により日本へも輸出されています。
ほとんど生食するかお菓子作りの材料として使ったりしますが、そのまま食べるとさっぱりとしているのでジャムや砂糖とともに食べたり、もうすでにスパイスやハーブが入って商品になっているものもあります。クリームチーズはこのタイプのチーズにクリーム、またはクリームと牛乳を混合して作ったものです。

なぜチーズかというと槙谷美貴子はチーズ好きだからです。
リコッタチーズやブリーチーズが特に美味しいと思いますね。
チーズて保存がきく食品でそのまま食べることもできますし、材料にすることもできます。
また乳製品は基本的に価格もそれ程高くないので普段食べることができる栄養価の高い食べ物というのも良いと思います。

2011年7月4日月曜日

槙谷美貴子と紅茶の歴史

こんにちは。槙谷美貴子です。
現在、世界の茶の生産の8割は紅茶です。
1985年の茶の収穫量は2,333(千トン)、そして緑茶の生産量は424(千トン)程度です。
日本では中国から伝わってきた緑茶が普及しており、紅茶の消費量は緑茶に遠く及びません。
そしてお茶のふるさと中国も緑茶の消費が中心です。
ところが、それ以外の地域、ヨーロッパやアメリカではお茶といえば紅茶特に、槙谷美貴子も好んで飲んでいる紅茶の輸入数量では圧倒的な国イギリスは紅茶の本場です。
いったい、どのようにしてイギリスで紅茶が隆盛を極めるようになったのでしょうか?

1700年に東インド会社が中国からイギリスに運んだ積荷のお茶の内訳は、たとえば、安徽省の下級緑茶300梱と福建省の下級烏龍茶80梱であったりします。 
1720年頃には、女王にあやかって、銀のポットや中国製の陶磁器ののポットを使って、茶を客の目の前で淹れることが上流階級でのステータスシンボルとなり、客人がお茶の席で女主人と会話を楽しむのが社交のエチケットであるとされるようになっていきます。
1720年頃には主として値段の安い粉緑茶が多く輸入され、イギリス人に飲まれており、茶の関税引き下げにより、中国からの輸入量は100万ポンドを超えるまでになりました。
その頃中国茶の輸入の独占権を得た、イギリスの東インド会社の中国茶輸入量は増え続け、1760年には東インド会社の輸入金額の40%を占めるようになります。
このときには、イギリスのお茶の消費量はすでに他のヨーロッパ諸国の全消費量の約3倍に達していました。
18世紀後半には、イギリスにもスタッフォードシャーを中心に窯業がおこり、イギリス独自の陶磁器が大量生産できるようになります。
一説には、1784年に余干臣が宦官をやめて商人になり福建省から安徽省にやってきて、福建省の発酵茶「工夫茶」にならって東至県に工場を設立し、工夫茶にならって茶の製造を始めた。次の年には、祁門県(祁の偏は[示]です)に二ヶ所の製茶工場を設立して「祁門紅茶」を造りこれを拡大していった、といいます。
また一説には、1786年に祁門の南の貴渓の胡元竜が日順茶工場を開設して、烏龍茶を改良して「祁門紅茶」を完成させたと伝えられています。

槙谷美貴子は紅茶は茶葉が船旅中に発酵してできた者と聞いていましたが間違いみたいですね。

2011年7月1日金曜日

近代英語と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日は近代英語について槙谷美貴子がお話させていただきますね。
中英語の後、15世紀から16世紀にかけて、発音と綴りが著しく異なるようになったそうです。それまで「フィーヴェ」は five、「ロート」は root、「セーク」は seek というように、綴りは発音のとおりだったんですが、この時期から発音が大きく変化し、その一方で綴りについては「発音の変化にあわせて改定する」ということを一度も行わなかったため、両者の間に乖離が生じ、現在の英語学習者の頭痛の遠因ともなっているのだとか。
また、16世紀から17世紀には、啓蒙時代の文人たちが、「粗野な」英語の水準を高めようと、ラテン語、ギリシャ語を借用したため、学術用語を中心に数百ものラテン語が定着したのだそうです。例えばmcynic、analogy、animate、explain、communicate などですね。
一方でフランスとの交流も相変わらず盛んだったため、フランス語も絶え間なく流入したようです。しかし、以前のノルマン・コンクエスト時代に入ってきたフランス語と同じ単語が重ねて入ってくることもあり、その場合は違った形と意味で借用されたのだとか。assay(金銀の含有量を調べる)は1338年に入ってきた言葉ですが、フランスではその後意味が広がり、「試みる」の意味となり、それが1597年に再流入してきた時には essay(試みる、随筆)となったみたいですね。
また、大航海時代の到来と共にイギリスの生活圏が広がり、世界各国から新しい単語が入ってきたのもこの時代の特徴だと言われています。例えば、イタリア語から ballot、スペイン語から cigar、ポリネシア語からtaboo、ペルシャ語から(ヒンディー語を経由)pyjamasなど。

機会があれば近代英語までお話したいところです(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月30日木曜日

槙谷美貴子と中英語

槙谷美貴子です、こんにちは!今日もまた、槙谷美貴子が英語史の続きをお話させていただきます。よろしく尾根阿木します。

ノルマン・コンクエストの結果、イギリスの支配階級はほとんどノルマン系フランス語しか話さない人々によって占められることになり、フランス語が大量に流入したそうです。その結果上流階級の話すフランス系語彙と、中下層階級のゲルマン系語彙の二系統が混在する現在の英語ができ上がったんですね。例えば、mutton(食用の羊肉) - sheep(家畜の羊)、beef(食用の牛肉)- cow(酪農用の牛)など。つまり貴族は食べ、庶民がその肉を養うということだそうです。
この時期にフランス語から英語に入った語には pavilion、tennis、umpire、nasty、bribe、gentle などがあるみたいですね。そのときまでに英語には十分な語彙が存在していたため、新しく入ってきたフランス語は従来の英語の意味を変えたり、変えられたりして定着し、結果として英語の表現力は大きく向上したそうです。例えば、判決を下すの英語は元来 doom だったんですが、それはフランス語由来の judge にとって代わられ、doom は「最後の審判」という特殊な意味へと変化していったんですね。
しかし、ノルマン人は少数だったため、13世紀になると英語がイギリスの国語としての地位を確立し始め、百年戦争の敗退などを受けて14世紀には貴族でさえ英語を母語とするに至ったそうです。ですがこの間にフランス語から借用された語彙は一万語におよび、その75%が現在まで残っているのだとか。
長らく英語では話し言葉と書き言葉(ラテン語)が分離していたが、ルネサンスの運動がようやくイギリスにも伝わると、両者を一致させる動きが現れ、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』などができ上がったみたいです。
古英語期にはアルフレッド大王の文教政策が功を奏し、ウェセックス方言によるテクストが多く残り、1つの「標準語」として認められていますが、中英語期には前述のような階級間でのかなり目立った言語格差が見られたり、フランス語からの影響を多大に受けていたことも手伝って、中英語は言語的にかなり過渡的で流動的なものだったといえるのだとか。したがって、古英語のように形態論、統語論を「中英語」という枠で一般的に記述することはきわめて難しいみたいですね。その場合には、チョーサーが用いた「東イングランド」方言に限定するなど、時代・地域の的を絞る必要があるそうです。それほど時代・方言によって違いの多い時期だったのだとか。

11世紀から15世紀にかけてのお話です。
少しずつ成長していっているみたいで、本当に調べるのが楽しいです(笑)この時代をもとにした映画なんか、見てみたくなりました(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月29日水曜日

英語史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日は、英語の歴史、英語史について、槙谷美貴子がお話させていただきます。よろしくお願いします。
現在直接辿れる英語の最古の祖先は印欧祖語とされています。印欧祖語はかつて黒海沿岸に居住していた民族が使用していた言語であると推定されていてmそこから幾つもの言語集団がインドからイラン、ヨーロッパにかけて移動し、ヒンディー語、ペルシャ語や、ヨーロッパの諸言語として分かれていったと考えられているのだとか。このうち黒海からヨーロッパ北部へ分かれた言語がゲルマン祖語と想定されています。これをルーツとする言語集団をゲルマン語派と言い、その中に現在の英語、ドイツ語、オランダ語、北欧諸言語が含まれていたのだとか。
そのゲルマン族のうち、ドイツ西北部に移住した部族にアングル人・サクソン人・ジュート人がおり、しばらくそこに住んでいたがやがて4世紀頃にフン族の圧迫で西部に押し出され、ブリテン島に渡っていきます。

ブリテン諸島 には古くからブリトン族などのケルト人が住んでいましたが、 紀元43年、第4代ローマ皇帝クラウディウスの征服により、現在のイングランドとウェールズに当たる地方がローマ帝国に組み込まれました(ブリタンニア属州)。しかし、帝国が衰退するにつれ、ローマ軍は大陸へ撤退せざるを得なくなり、その空白を縫ってゲルマン人の部族であるアングル人・サクソン人・ジュート人が5世紀頃ブリテン島に侵出し、ケルト系住民を西北に押しやって定住したのだとか。
彼らは七つの王国を樹立し(七王国時代)、あい争っていたが9世紀に統一され、この王朝のもとで古期英語が隆盛したそうです。アングル族(ドイツ北部アンゲルン半島出身)・サクソン族(ドイツ低地ザクセン州出身)の言語が英語のベースとなっているため、英語の最も基礎的な語彙、文法はゲルマン語に基づくみたいですね。例えば、folk、mind、ghost、shape、with などがそうみたいです。
また、大陸からキリスト教典などのラテン語文献も翻訳し、およそ450語のラテン語彙が流入し、ましたが、これらは主に宗教、学術用語であったそうです。これは現在もほぼ同じ形で使用されていますね。例えば、angel、candle、organ、Antichrist、prophet、disciple などだそうです。
8世紀頃からデーン人(バイキング)の侵略が激しくなり、王国は崩壊し、11世紀始めにはイングランドはデンマーク王クヌートの支配下に入ります。この長い混乱の過程で古ノルド語の語彙が英語に入ってきたのだそうです。古ノルド語も英語と同じくゲルマン語であるため、英語は古ノルド語から数千もの日常語彙を借用したのだとか。これはawkward、band、bank、weak、die、grasp などがそうみたいです。また、三人称複数を表す they、their、them も古ノルド語からの借用みたいですね。
古英語の時代は、古ノルド語などの影響もあったものの、外来語をそのまま借用することは後述する中英語や近代英語時代と比べて少なく、heofon-cyning(天の王→神)や mere-hengest(海の馬→船)という風に、単語と単語を合成させる複合語(ケニング kenning)を造り出していたそうです。しかし、これらのほとんどは中英語期以降にフランス語やラテン語からの借用語に取って代わられ、現代英語ではほとんどが廃語になっているのだとか。
王の死後、アングロ・サクソン人の支配は復活するが、その支配力は弱く、内乱が相次いだため、最終的には、フランス北部にいたノルマン人に占領されてしまいます。
まとめれば、5世紀から11世紀という中世前半に、アングロ・サクソン人のゲルマン語が母体となって、ラテン語・フランス語・古ノルド語の影響を受けて、英語ができ上がっていったんですね。English とは「アングル(Angle)族の言葉」、という意味なのだそうです。

英語史、まだまだあるんですが、今日はこの辺で。また機会がありましたら、ここでご紹介させていただきたいと思っています。よろしくお願いします。槙谷美貴子でした。

2011年6月28日火曜日

ポール・セザンヌについてと槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今回は、フランスの歴史的画家、ポール・セザンヌについてお話させていただこうかと思います。よろしくお願いします。
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日(10月23日説もあるそう))はフランスの画家です。当初はモネやルノワール等と共に印象派のグループの一員として活動していたそうなんですが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求したそう。
「多角的な視点の採用、対象の内面に迫る心情性に富んだ形体・色彩の表現、単純化された堅牢な造形性など印象主義的なアプローチとは異なる、独自性に溢れた革新的な表現方法によって絵画を制作」していることが特徴です。
セザンヌはモネら印象派の画家たちと同時代の人物ですが、ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及されますね。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えたとされています。
私もセザンヌの絵画はよく見るんですが、その当時にしては前衛的なタッチなんですよね。彼の登場によってぐんと絵画の幅が広がったのがよく分かります。絵の歴史も、楽しいものです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月27日月曜日

フランス人の歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日はフランス人の歴史を、槙谷美貴子がお話させていただきます。よろしくお願いします。
ローマ時代以前、ガリア全域(現在のフランス、ベルギーの全域とドイツ、スイス、北イタリアの一部を含む西ヨーロッパの領域)には、集合的にガリア人として知られるさまざまな部族が居住していました。彼らの祖先は紀元前7世紀ごろに中央ヨーロッパからきたケルト人で、彼らは土着の人々(主にリグリア人)を支配していたそうです。
ガリアは紀元前58年から51年ごろにユリウス・カエサル指揮下のローマ軍に征服され、ローマ帝国の版図に含まれることとなりました。続く5世紀を通じて、ガリアとローマの人々、そして文化が混淆し、ガロ・ローマ文化が形成されていったんですね。俗ラテン語の諸方言が地域の支配言語となり、土着のケルト語は、ほとんどの場合、方言の中に痕跡を留めるだけになっていきます。今日、フランスにおけるケルト文化・ケルト言語の唯一残存する地域は北西のブルターニュのみですが、これもガリア語が生き残ったわけではなく、中世にコーンウォールからケルト人が移り住んだためとされています。

西ヨーロッパにおけるローマ帝国支配の衰退によって、3番目の集団がこの地域に流入してきました。すなわちフランク人であり、「フランス」という言葉の語源は彼らに由来するのだそうです。フランク人は、3世紀ごろから、現在のドイツにあたる地域から、徐々にライン川をわたりはじめていたゲルマン系部族だそうです。6世紀初めには、フランク人は、メロヴィング朝の王クロヴィス1世とその息子に率いられ、現在のフランスほぼ全ての地域に支配権を確立し、その国に彼らの名前を与えたんですね。フランスに到来したその他の主なゲルマン系部族は、ノルマン人(現デンマーク及びノルウェーに居住したヴァイキング族)であり、彼らは9世紀に、今日のノルマンディーにあたる北の地域を占領しました。ヴァイキングは次第に土着の人々と婚姻をし、キリスト教を受容していったそうです。そしてノルマン人は、2世紀後にイングランドを征服するんですね。ですが、中世、独立したノルマン公国は次第にフランス王国に再度取り込まれていきました。なお、フランク人から21世紀のフランス人へは直接の血統のつながりを見出すことはほとんど不可能だとされています。

フランス人についての歴史、やっぱり面白いですね。フランスには興味深い建築物もあるので、それについてもまた機会があれば書いていきたいです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月24日金曜日

日本家屋の歴史と槙谷美貴子

こんにちはー。槙谷美貴子です。近頃暑いですね。歴史に関する建物に行きたいんですが、こう暑いと行く気が起きません(苦笑)
なので今日も調べるだけにしておきましょう(笑)

今回槙谷美貴子がお話するのは、日本家屋の歴史についてです。よろしくお願いします!
今日の和風住宅の原型が成立したのは室町時代だと言われているみたいです。足利義満の邸宅はまだ寝殿造の面影を留めていたそうなんですが、いわゆる東山文化の時代(応仁の乱前後)の足利義政の邸宅になると、初期書院造と呼ばれるものになりました。畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られるようになったんですね。これは今の日本家屋に非常に近い形ですよね。
江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していきます。大まかに言えば、江戸時代中期までは関西の住宅の方が質が高く、構造や工法が次第に関東にも影響を与えていったのだそうです。近世初期の関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かったみたいですね。工法も古代・中世と余り変わらず、掘立柱を立て、茅葺で屋根や壁を葺くようなものであったのだとか。経済的に向上するに従って、住宅の質も次第に上がり、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝に使う部屋が造られていったみたいです。高い技能を持った職人が関与するようになり、工法も礎石の上に柱を据え、梁を複雑に組み合わせて造るように変わりました。ただし、土壁や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かったそうです。
江戸時代後期には掘立柱建物が次第に廃れていき、庶民の民家にも礎石建物が浸透していきます。江戸時代後期以降になると「田の字型」の間取りが広く普及していったそうなんですが、この間取りは結婚や葬儀など人が多く集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせて襖を開け閉めして用いたそうです。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものには、「田の字型」のタイプが多く見られますよね。
明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになります。西洋建築の技術にも刺激され、大工道具の質も上がり、職人の交流も活発になったことなどで、建築の質は全体に向上していったんですね。明治時代に洋風の住宅(西洋館)に住むのは、政治家、実業家などごく限られた階層の一部の者であり、ほとんどは和風住宅だったそうです。
大正時代以降はサラリーマン、都市知識人らが洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く造られるようになりました。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかったみたいです。
そして関東大震災後、同潤会アパートなどの近代的な集合住宅が現れ、庶民の住まいにも洋風建築が取り入れられ始めます。
今日では洋風の住まいが普及し、日本の生活習慣は欧米の影響を強く受けた形に変化しましたよね。欧米からの輸入住宅も少なくないのだそうです。かつては床の間のない家はほとんど考えられなかったそうなんdねすが、新築の家は和室はあっても床の間がない場合が多くなっています。

住居の歴史を見るのも、やはり楽しいですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月23日木曜日

異人館についてと槙谷美貴子

こんにちは。槙谷美貴子です。
今日、槙谷美貴子は、異人館についてお話したいと思います。
異人館とは幕末・明治時代以降(主として明治時代)の日本において、主に欧米人が住宅として建設した西洋館ですね。
従来の日本家屋とは異なる西洋式の住宅に異邦人(異人)が住んだことによるのだそうです。日本人が住んでいた西洋館も(誤って)異人館と呼ばれることがあるのだとか。開国から明治前期まで、外国人の住まいは原則として居留地に限られていたようです。条約改正との関連で明治32年(1899年)以降、内地雑居が認められ、旧居留地以外の高台などにも建設されるようになったみたいですね。群として多く残っているのは神戸、長崎。横浜、函館では異人館という呼び方は一般的でないとされているみたいです。

日本の各地にある異人館についても調べてみました。
兵庫県神戸市の北野町山本通には外国人の住宅が多数残っていて、1977年放送のNHK連続テレビ小説『風見鶏』などで北野異人館街として広く知られるようになり、その一部が公開され観光名所にもなっていますね。1980年、北野町山本通は種別「港町」として最初に重要伝統的建造物群保存地区に選定されているみたいです。1995年に発生した阪神・淡路大震災により異人館の約3割が失われたが、40棟余りが現存し、保存措置が講じられているみたいですよ。
また、神戸市西部のJR塩屋駅の山手、ジェームス山と呼ばれるエリアにも異人館が約50棟現存しているのだとか。こちらは昭和初期にイギリス人貿易商アーネスト・ウィリアム・ジェームスにより外国人用住居・別荘として建てられたものが主とされています。現在も多くの外国人が居住しており、観光地化はされていないのだとか。
長崎県長崎市にもグラバー邸をはじめ著名な異人館が残っていますよね。特に東山手・南山手地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようです。このほか九州では鹿児島市などにも異人館は残っているのだとか。
神奈川県横浜市は関東大震災で大きな被害を受け、震災以前の建物はほとんど残っていないようです。現在観光コースになっている山手本通り沿いは数棟の西洋館があるそうなんですが、山下公園前の外国商館であった旧イギリス7番館(1922年)を除いて、関東大震災以降に建築されたものか、他所から移築されたものみたいですね。
北海道函館市では1907年(明治40年)の大火があり、大火後に建設された外国関係のものはイギリス・ロシアの領事館程度だそうです。

折角なので、これのどこかには行ってみたいですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月22日水曜日

槙谷美貴子と擬洋風建築

こんにちはー。槙谷美貴子です。
今日も歴史について、色々と調べてみました!なので、今回槙谷美貴子は、擬洋風建築について、お話させていただきますね。
擬洋風建築とは、明治時代初期に西洋の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたものです。
伝統的な技法をベースにしながら、西欧に由来するデザインを消化・吸収した独自の造形であり、日本の近代化をよく物語る存在と言えます。重要文化財または地方自治体の有形文化財に指定、あるいは登録有形文化財に登録されているものも多いのだそうです。

幕末の開港以降、外国人居留地には彼等が本国の建築様式を持ち込んだ建造物が続々と建てられました。やがて居留地の建築に刺激を受けた大工の棟梁が、見よう見まねで洋風デザインの要素を取り入れた建物を建てるようになったんですね。これが擬洋風建築で、文明開化の象徴ともされているようです。
初期の代表的なものとして、二代目清水喜助(清水建設の実質的創始者)による築地ホテル館(現存しない)がありますね。これは幕府の要請を受けて築地居留地の外国人旅館として建設が始まり、明治維新後に完成したそうです。築地ホテル館や維新後間もなく建てられた第一国立銀行(明治6年)は当時の錦絵にも多く描かれ、評判を呼んだみたいですね。
地方においても、「第2の文明開化」というべき時流・風潮があり、県令(現在の都道府県知事に警察・検察・教育長等の権限を統合したような治権首長)の希望・命令、あるいは篤志家の出資などに基づき、役所、学校、病院などに洋風デザインが採用されることがあったそうです。これらの擬洋風建築は近代化の象徴として、地元民の誇りともなり、本来の役割を終えた後も、民俗資料館等として保存・活用されていることがあるのだとか。

また、現存する擬洋風建築の中でも有名なものには旧開智学校(長野県松本市)があるようです。私は実物を見たことはないんですが、左右対称の外観で中央に塔屋を造り、正面入口の上には、竜や天使の彫刻が舞っているという、和洋折衷の何とも不思議なデザインなのだとか。これを建てた地元の棟梁・立石清重は、東京や横浜に出かけて洋風建築を見て学び、自分なりに消化して奔放な造形を行ったそうですね。

擬洋風建築、是非間近で見てみたいものです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月21日火曜日

江戸時代についてと槙谷美貴子

こんにちは!槙谷美貴子です。
今日、槙谷美貴子は、江戸時代についてお話させていただきますね。
江戸時代は日本の歴史において、徳川将軍家によって日本が統治されていた時代です。徳川時代とも言いますね。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府あるいは徳川幕府と呼びます。
具体的には、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)に江戸城が明治政府軍の手に落ちるまでの、265年間を江戸時代と呼びますね。
始期については、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日(慶長5年9月15日)を始まりとする見方もあるそうです。また、終期については、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年11月9日(慶応3年10月14日)とする見方や、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した1868年1月3日(慶応3年12月9日)とする見方も存在するのだとか。

藩政時代(はんせいじだい)という別称もありますが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多いそうです。
江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な学問が開花しました。また経済の発展による庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなったのだとか。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的、連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられるそうです。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ近代に近い時期として、江戸時代は歴史の上で近世と定義されているみたいですね。

江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになります。基本的には藩士の子弟に朱子学や剣術を奨励・徹底するものですが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあったのだとか。庶民レベルでは、僧侶ら知識階級が庶民らの子供を集めて基本的な読み書きを教えたそうです。この寺子屋が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となったみたいですね。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎が古義堂を開くなど、私塾を構えるところもあったみたいなんですが、江戸中期くらいから郷村で村塾といわれる私塾が出てきたそうです。

江戸時代、長く続いただけあって調べることが多く楽しいです(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月17日金曜日

ピサの斜塔の歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日も、「槙谷美貴子の歴史好きブログ」はじめていきたいと思います。
今回お話するのはピサの斜塔の歴史について。
ピサの斜塔は、イタリアのピサ市にあるピサ大聖堂の鐘楼で、世界遺産「ピサのドゥオモ広場」を構成する観光スポットです。高さは地上55m、階段297段、重量は14,453t、地盤にかかる平均応力は50.7tf/m2と見積もられているそうです。一時傾斜の増大と倒壊の危惧があったんですがその後の処置により、当分問題ないと判断されているようですね。現在の傾斜角は約5.5度で、傾斜の進行は止まっているみたいです。

傾斜の原因:1990年から改修工事前に行われた地質調査によれば、地盤の土質が極めて不均質であったことだそうです。南側の土質が相対的にやわらかく年月を経るうちに傾き始め、それにより回転モーメントが増大してますます地盤に対する負担が大きくなり、結果的には塔の南側が大きく沈下するという事態に陥った、というわけなんですね。どうしても傾斜が修正できなかったため、最上階層のみ鉛直に建てられているそうですよ。また、オリジナルの建築計画上では現在あるものよりも遥かに高い鐘楼ができる予定だったそうです。

ピサの斜塔、私は見に行ったことがないんですが、こんな歴史が隠されていたんですね。そういえば、ピサの斜塔は写真に撮るのがひどく難しいらしいです。一度行って、試してみたいですね(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月16日木曜日

二条城と槙谷美貴子

こんにちは。槙谷美貴子です。
今回槙谷美貴子がお送りする歴史に関するお話は、お城!
京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城、二条城についてです。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもありますね。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがありますが、現在見られるものは、徳川氏によるものとなっております。
城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されています。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されているんですよね。

外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつ。正門は堀川通に面した東大手門ですね。南門は1915年(大正4年)に新たに造られたもので、この南門と西門は外堀を渡る橋が撤去されており使用されていないのだとか。また、北大手門も普段は閉鎖されているみたいですね。この他に、城内には5つの城門があります。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門ですね。
二の丸の中心的建造物である二の丸御殿は、東大手門から見て正面の右斜め前方向に建ちます。御殿は築地塀で囲まれていて、唐門は塀の南側。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)が見えるのだとか。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」(しきだい)、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」(くろしょいん)、「白書院」(しろしょいん)と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっているようです。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園があるみたいですよ。遠侍の北側、白書院の東側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物があるのだとか。
本丸の御殿は御所の北にあった旧桂宮邸を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、過去には春と秋に期間限定で公開されていましたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年)春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていません。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や池も現存しているようです。

内部、見たかったのに残念ですね。
また公開されることがあったら、絶対突撃していきたいと思います(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月15日水曜日

中世イタリアと槙谷美貴子

こんにちは、槙谷美貴子です。今回、わたくし槙谷美貴子がお話するのは、イタリアの中世の歴史についてです。
5世紀以降、イタリア半島は東ローマ帝国やゲルマニア地方の諸民族、アラブ人などの外国勢力の侵略を受け、また外国の勢力に後押しを受けた小国、公国、王国が乱立し、相争う状態に陥ったことで政治的な統一性は失われていきました。ゲルマン人のランゴバルド族は、北部のランゴバルド王国のほか、スポレート公国、ベネヴェント公国を支配したが、前者の二つはフランク王国に併合。ベネヴェント公国はランゴバルド王国の滅亡後、ベネヴェント侯国と称し、サレルノ侯国やカープア侯国を成立させたんだそうです。南イタリアではビザンツ帝国からナポリ公国、アマルフィ公国、ガエータ公国などが独立しましたね。そのような状況下でカトリック教会は唯一安定した組織だと見なされ、大きな政治権力を握るようになります。ローマにいる教皇はイタリアの一部を直接統治していたみたいなんですが、その影響力はイタリア全域にとどまらずキリスト教化されたヨーロッパ中に及んでいたのだそうです。また9世紀以降、イタリアをみずからの領土だと主張する神聖ローマ帝国と教皇の対立により、イタリア半島はしばしば戦場となったとされています。
11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、特にヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェなどが海運や商業によって繁栄するようになり、名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展しました。12世紀には北イタリアの都市国家群がロンバルディア同盟を組織し、イタリアでの実権を「バルバロッサ」として知られる皇帝フリードリヒ1世から防衛しています。
一方、アラブ人や東ローマ帝国に支配されていたイタリア南部やシチリア島では、ローマ教皇の求めでロベルト・イル・グイスカルドをはじめとするノルマン人のヴァイキングが征服を行い、1130年にオートヴィル朝シチリア王国が成立しました。シチリア王家と神聖ローマ皇帝(ホーエンシュタウフェン家)の政略結婚により両家の血を引くフリードリヒ2世が成人すると、イタリア半島統一の意志をあらわにします。しかし、ロンバルディア同盟などの反抗によりフリードリヒは統一を果せず、子孫がその意志を継いだんですね。
皇帝によるイタリア統一を危惧したローマ教皇は、フランスの手を借りたとされています。フランスは王弟シャルル・ダンジューを送り込み、1266年にフリードリヒ2世の息子マンフレーディを倒し、シャルルはシチリア王カルロ1世として南イタリアを支配したんだそうです。
1282年、フランス支配に不満を持ったシチリア住民は、シチリアの晩祷と呼ばれる反乱を起こし、シャルルをナポリに追放、マンフレーディの娘婿にあたるアラゴン王ペドロ3世に庇護を求めました。このことによりシチリア王国は2つに分裂し、半島側はナポリ王国と呼ばれることとなったんですね。



それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月13日月曜日

槙谷美貴子と平安時代

槙谷美貴子です。

今日は平安時代について語りたいと思います。
■平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が鎌倉幕府が成立するまで政治上唯一の中心であったことから、平安時代と称する。

■文化・宗教史
平安初期の中央文化は、唐の影響を強く受けていた。桓武天皇は中国皇帝にならい郊天祭祀を行うなど、中国への志向が強かったと考えられている。桓武期には従来の日本に見られない中国仏教(天台宗、密教)が最澄、空海によって伝来され、以降の日本仏教の方向性を大きく規定づけることとなった(平安仏教)。こうした仏教の影響を日本古来の信仰も受けて、本地垂迹説があらわれて神仏習合が進んでいった。嵯峨天皇から清和天皇にかけての時期は、凌雲集などの漢文詩集が編纂されたり、唐風の書がはやるなど、唐風文化が花開いた。この唐風が非常に強い文化を弘仁・貞観文化という。

文化の国風化(日本化)の萌芽は、奈良時代から見られていたが、平安初期は唐風文化の影に隠れるかのようになっていた。しかし、唐風化の波が沈静化すると、ふたたび日本的な要素が文化の前面へと現れてきた。これが、平安中期ごろの国風文化である。特徴としては、平仮名・片仮名の発明で日本語の表記が容易になったことによる、源氏物語や枕草子に代表される和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造等の和様建築の登場などがある。また、平安中期は、仏教の末法思想が人々に広く浸透し、浄土思想・浄土教が盛んとなった。民衆に仏教信仰が拡がったのもこの時期であり、空也や融通念仏の良忍などの僧が民衆の中で活躍した。

平安末期になると歴史物語・軍記物語などの時代を顧みる文学が芽生えた。天台仏教・山岳仏教が日本各地へ広がり、豊後国東半島(富貴寺大堂など)や北陸(平泉寺など)などで動きが顕著であり、その他の地域でも山陰の三仏寺投入堂などがある。当時、民衆の間に今様という歌謡が流行し、後白河上皇により今様を集成した『梁塵秘抄』が編まれた。覚猷(鳥羽僧正)筆と伝えられ、人々の様子を愛嬌のある、活き活きとした姿で描いた鳥獣人物戯画もこの時代の作品である


最近、歴史人物ブームが来ていると思うのは槙谷美貴子だけでしょうか?
芸能人の方もよくテレビで戦国武将が好きだったりする人が多いんですよね。
なんか槙谷美貴子としては遠い存在の人が歴史人物が好きだと言うと親近感持ってしまいます(笑)
後々歴史人物も紹介していきたいと思います。

槙谷美貴子


2011年6月10日金曜日

弥生式時代の生活と槙谷美貴子

こんにちは、槙谷美貴子です。
今日は織物について喋っていこうと思います。
なぜ、織物かというと縄文時代の次の弥生式時代から織物が始まったと聞いたからです。
日本の織機の歴史は、弥生式時代(西暦1~2世紀頃)に始まると言われ、我が国最古の織機の木片が、静岡県の登呂遺跡から出土しています。
居座機(いざりはた)と呼ばれ、手織機の初期のものだそうです。

次に、弥生土器なのですが、特徴はイチジクの実の形に似ていて、胴の下半分が外側に張り出しています。
壺の肩の辺りを太い縄目と細い縄目で装飾していて、縄文の上に小さな円形が三つを一組として頸部をめぐっている物もあるそうですが、弥生時代後期のものと考えられています。
他にも、粘土を輪積みにして整形し、外面を丁寧に磨き上げ、焼成の具合で赤みがかった部分もあります。
使われ方等の説明は色々ありますので、また後ほど槙谷美貴子が話していきたいと思います。
次回もよろしくおねがいします。

2011年6月9日木曜日

槙谷美貴子と縄文時代

槙谷美貴子です
こんにちは

今回は少し飛んで縄文時代のお話を槙谷美紀子がお話します。
縄文時代は約1万3千年前から2500年前となっております。
床を掘り下げ、まわりを草で囲んだ家に住み、シカやイノシシなどの獣(けもの)や魚・貝、木の実などをとって暮らして、縄文時代では弓矢と土器が生活を特によくしました。
縄文土器はまだ焼き物を作るための釜のようなものがなかったため、木を大量に使って焼いたようです。
この時代は、煮て食べれるようになったものが出てきた分、沢山の栄養が取れるようになりました。

この縄文土器は、ほとんどの土器の表面に縄を押し付けた後があることから名前が付けられたそうです。
縄には色んな節があるそうですが、縄紋土器の縄の模様で一般的に知られているのが単純に縄を撚っただけの「単節縄文」と言います。
「複節」、「複々節」さらに、縄の真ん中を縛り、転がすと羽のような模様になる「羽状縄文」。また、棒状のものに巻きつけて転がして模様をつけたものがあるそうです。
縄にも右巻きと左巻きがあるそうなので、博物館などにいって縄文土器を観察して当時の人が右利きか左利きかを考えてみるのも楽しいかもしれませんね。

2011年6月7日火曜日

槙谷美貴子と石器等の道具

こんにちは。今日も槙谷美貴子が歴史の話をしますのでよろしくお願いします
今日の槙谷美貴子の話は石器を中心に行こうと思います。

猿人からはじまった人ですが、ホモサピエンスになるまで何もしなかったわけではありません。
その過程での一番の始まりの道具は、骨や木の棒から道具を使うことから始まっています。
しかし、骨や木の棒等のものは遺物として残りにくいし、出土しても道具なのか区別がつきにくいので、いつ頃から、どのように使っていたのかよくわかりません。
はっきり道具とわかるものとしては石器があり、今のところ250万年前のものが最古とされています。
その石器も打ち砕いたもので、まだ言語能力もない状態だったためなのか、極めて限定されているのかはわかりませんが、10万年前頃まで、つまり200万年以上も、石器の形態に大きな進歩がみられない状態の石器だったのです。
道具・言語とならんで人類の特徴とされる火の使用についても、状況は似たようなものでアフリカ大地溝帯で発見された140万年前の火の使用跡が最古とされているが、火のおこし方は知らなかったようで、野火や落雷などから偶然にえた火を絶やさないよう努力していたと考えられるそうです。
新人があらわれて10~20万年たち、今から5万年ほど前になると、人類は道具の製造や形態が格段によくなっていきます。
そして、この頃には言語は十分発達していたと考えられ、集団行動や役割分担も巧みになり、火おこしや調理・野獣よけ・狩りが出来るようになります。
この時代は最終氷期といって、平均気温は現在より4~5℃も低かったそうで、ユーラシア大陸の北辺は氷河に覆われており、現在のフランスにツンドラが広がっていたともいわれます。
しかし人は毛皮を縫い合わせた服や炉を備えた住居を作り果敢にマンモスやトナカイを追いかけていたと聞きます。
そしてどんどん人の住処が拡大して行き、充実していく事になるわけですね。

2011年6月6日月曜日

槙谷美貴子と人への進化

こんにちは、槙谷美貴子です。
今日は人への進化ということをメインにお話していこうと思います。

ヒト(人類)の祖先が、チンパンジー・ボノボの祖先と別れたのは600万年前~700万年前くらいで、脳が発達して道具を使うことができる(チンパンジーやオランウータンも道具を使う)、複雑な言語体系がある、火を使用するなどのほか、他の類人猿にはみられない大きな特徴は、直立二本足歩行をすることです。そのほかであげると、犬歯が発達していないという特徴もあるそうです。


人とは、元々人であったわけではなく、大きな流れで言うと猿人から始まります。
猿人(アウストラロピテクス)→原人(ホモ・エレクトス)→旧人(ホモ・ネアンデルターレンシスなど)→新人(ホモ・サピエンス)です。
しかし、化石人類にはほとんど現生人類にはつながらない子孫を残さず絶滅した種のようです。
そして、不思議なことにこういった様々な人類はアフリカで起源を持って、世界に散らばって行ったそうです。
地球もまだ、大陸がばらばらにならずにつながっていたわけですから、移動はできるのですが、なぜアフリカがジャワ原人、北京原人等の起源なのかは解りません。
なんだか不思議ですね。

槙谷美貴子としては、こういった歴史にも興味があるので次もこのような起源の話が少し続くと思いますが、よろしくお願いします。

2011年6月3日金曜日

歴史好きの槙谷美貴子について

始めまして、槙谷美貴子と申します。
ここでは槙谷美貴子が気になる歴史の話を主に語っていこうと思います。

歴史好きになったきっかけは、子供の頃に図書室などで読んだ本や社会の授業から始まりました。
歴史には色んな歴史があり、私達が今までの文化に至る過程を知れるので興味深いもので、それを知っていくたびに今までの私達の生活を支えているものの興味深さを知れるという機会に出会いました。

今も昔も、戦国時代や三国時代のような戦歴が沢山あった時代が人気のようですね。
特に歴史に興味がある方々が最近増えているというのも聞くのですが、それだけ歴史に興味をもたれるかたがふえるというのは嬉しいことです。

歴史については、生活の道具等もそうですが、ここまで至った歴史の様々な出来事をこのブログではお話していきたいと思いますので、よろしくお願いします。