槙谷美貴子が歴史についてお話するブログです。
槙谷美貴子は今日も歴史について調べたことをお話させていただきますね!
管理人は槙谷美貴子です。
槙谷美貴子は3月8日について調べました。今日はエスカレーターの日だそうですね。
槙谷美貴子はエスカレーターの歴史をお話します。
槙谷美貴子は調べていて楽しかったです。
お話するのは槙谷美貴子です。
エスカレーターの特許を最初に出願したのはマサチューセッツ州ソーガスのネイサン・エイムズで、1859年のことだそうです。ただし、その設計に基づいて実動するエスカレーターが製作されたことはないとのこと。"revolving stairs"(回転階段)と名付けたその発明は思索的なもので、特許明細にはどういう材料で製造するかも書かれておらず、用途も明確でなかった(木材や布張りでも製作可能であること、住居内で足腰が不自由な人の補助として使えるかもしれないということは記してあるんだとか)。その機構の動力源としては、人力や水力を示唆していたみたいですね。
では今日はこのへんで。槙谷美貴子でした。
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2013年3月8日金曜日
2012年4月11日水曜日
今行ってみたい博物館 『国立歴史民俗博物館』
槙谷美貴子です!みなさん、こんにちは。
歴史をさかのぼると、とても意外なことがわかったり
当時の人の暮らしが浮かび上がったりしてとても面白いですね。
槙谷美貴子は、歴史のテレビ番組を見るのがとてもすきです。
中には、歴史を経るごとに、脚色されたり、変わってしまった史実や間違って解釈されていることなど沢山あるかもしれないですが、知るほど、謎が深まったりして興味が沸いてきます。
槙谷美貴子が最近、行ってみたい歴史博物館は、千葉県佐倉市にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する、『国立歴史民俗博物館』です。
・展示品
歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっているそうです。
展示室は常設展示の第1~第5展示室と、企画展示室に分かれています。
常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色であるそうです。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されています。2011年現在の展示は以下のような構成になっているそうです。
第1展示室 原始・古代(旧石器時代-奈良時代)日本文化のあけぼの / 稲と倭人 / 前方後円墳の時代 / 律令国家 / 沖ノ島
第2展示室 中世(平安時代-安土桃山時代)王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
第3展示室 近世(江戸時代)国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
第4展示室(閉室中) 民俗(民俗展示「日本人の民俗世界」)都市の風景 / 村里の民 / 山の人生 / 海辺の民 / 南島の世界 / 再生の世界
第5展示室 近代(明治時代-昭和初期)文明開化 / 産業と開拓 / 都市と大衆の時代
第6展示室 現代(「戦争-高度経済成長」)戦争と平和/戦後の生活革命
色んなものが展示されているんですね。私が生きている今の時代の物も、いつか
歴史の一部として展示される時がやってくるんでしょうか?
以上、槙谷美貴子が行ってみたい歴史博物館の概要とお話でした。
歴史をさかのぼると、とても意外なことがわかったり
当時の人の暮らしが浮かび上がったりしてとても面白いですね。
槙谷美貴子は、歴史のテレビ番組を見るのがとてもすきです。
中には、歴史を経るごとに、脚色されたり、変わってしまった史実や間違って解釈されていることなど沢山あるかもしれないですが、知るほど、謎が深まったりして興味が沸いてきます。
槙谷美貴子が最近、行ってみたい歴史博物館は、千葉県佐倉市にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する、『国立歴史民俗博物館』です。
・展示品
歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっているそうです。
展示室は常設展示の第1~第5展示室と、企画展示室に分かれています。
常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色であるそうです。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されています。2011年現在の展示は以下のような構成になっているそうです。
第1展示室 原始・古代(旧石器時代-奈良時代)日本文化のあけぼの / 稲と倭人 / 前方後円墳の時代 / 律令国家 / 沖ノ島
第2展示室 中世(平安時代-安土桃山時代)王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
第3展示室 近世(江戸時代)国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
第4展示室(閉室中) 民俗(民俗展示「日本人の民俗世界」)都市の風景 / 村里の民 / 山の人生 / 海辺の民 / 南島の世界 / 再生の世界
第5展示室 近代(明治時代-昭和初期)文明開化 / 産業と開拓 / 都市と大衆の時代
第6展示室 現代(「戦争-高度経済成長」)戦争と平和/戦後の生活革命
色んなものが展示されているんですね。私が生きている今の時代の物も、いつか
歴史の一部として展示される時がやってくるんでしょうか?
以上、槙谷美貴子が行ってみたい歴史博物館の概要とお話でした。
2012年3月14日水曜日
ハリウッドがカリフォルニアで始まった歴史
こんにちは、槙谷美貴子です。
槙谷美貴子の歴史好きのブログ
歴史のニュースをGoogoleで見ていると、ブラッド・ピットが歴史好きで、
10歳になる息子さんに歴史に興味を持ってもらえるように奮闘中だそうです。
既に自分用の武器や防具などの歴史的な衣装を一通り買いそろて、これから6人の子供全員に歴史を教える計画なんだそうです。トロイにも出演したブラッド・ピットの歴史教育、槙谷美貴子も拝見してみたいです
今回は、ハリウッドの歴史について槙谷美貴子が調べました。
1903年、当時農村だったハリウッドは市制を施行しましたが、1910年にロサンゼルス市と合併しました。20世紀のはじめのこの頃、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであったそうです。
特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作者や映画関連機器製造業者、製造業者ら9社はそれぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (w:en:Motion Picture Patents Company)を1908年に設立したそうです。これに参加しない映画関連業者にはカンパニーから高額の特許料が請求されました。参加が認められなかった中小の制作者らは一斉にこれに反発しました。特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィルムを使って撮影を続行したそうです。
カンパニー側は探偵を雇って違反者を片端から摘発したため、独立系の制作者はカンパニーの目のとどかぬ土地に出かけて映画を制作しました。中でもロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影には理想的で、クリエイターが集まり始めました。また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ手がやってくることを察知して国境を越えて逃げることができました。なお、カンパニーは1912年に反トラスト法違反であると指摘され、1915年には連邦裁判所で反トラスト法違反であるとされたそうです。カンパニーは1917年には消滅し、これに前後してカンパニー参加業者らも次々にハリウッドに拠点を移したそうです。
当時アメリカ経済の中心だった東海岸は天候が悪かったそうです。当時の映画は、フィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影できませんでした。電球などの照明はありましたが、映画撮影を行うには十分な明るさを確保できませんでした。そのため映画会社は、日が長く、地中海性気候のため夏にまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州に次々に移っていきました。また、まだ民族差別の激しかった時代の出演者やクリエイター達は、出自を偽ることが多かったそうです。当時はまだ東海岸を中心にワスプがアメリカの支配層であり、イタリア系やユダヤ系などの真の出自を表に出してはスターにはなれなかったからであるそうです。
最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられました。
最初から、カリフォルニアにあったのでは無かったんですね。
調べると意外なことがわかりました。
以上、槙谷美貴子でした!
槙谷美貴子の歴史好きのブログ
歴史のニュースをGoogoleで見ていると、ブラッド・ピットが歴史好きで、
10歳になる息子さんに歴史に興味を持ってもらえるように奮闘中だそうです。
既に自分用の武器や防具などの歴史的な衣装を一通り買いそろて、これから6人の子供全員に歴史を教える計画なんだそうです。トロイにも出演したブラッド・ピットの歴史教育、槙谷美貴子も拝見してみたいです
今回は、ハリウッドの歴史について槙谷美貴子が調べました。
1903年、当時農村だったハリウッドは市制を施行しましたが、1910年にロサンゼルス市と合併しました。20世紀のはじめのこの頃、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであったそうです。
特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作者や映画関連機器製造業者、製造業者ら9社はそれぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (w:en:Motion Picture Patents Company)を1908年に設立したそうです。これに参加しない映画関連業者にはカンパニーから高額の特許料が請求されました。参加が認められなかった中小の制作者らは一斉にこれに反発しました。特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィルムを使って撮影を続行したそうです。
カンパニー側は探偵を雇って違反者を片端から摘発したため、独立系の制作者はカンパニーの目のとどかぬ土地に出かけて映画を制作しました。中でもロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影には理想的で、クリエイターが集まり始めました。また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ手がやってくることを察知して国境を越えて逃げることができました。なお、カンパニーは1912年に反トラスト法違反であると指摘され、1915年には連邦裁判所で反トラスト法違反であるとされたそうです。カンパニーは1917年には消滅し、これに前後してカンパニー参加業者らも次々にハリウッドに拠点を移したそうです。
当時アメリカ経済の中心だった東海岸は天候が悪かったそうです。当時の映画は、フィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影できませんでした。電球などの照明はありましたが、映画撮影を行うには十分な明るさを確保できませんでした。そのため映画会社は、日が長く、地中海性気候のため夏にまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州に次々に移っていきました。また、まだ民族差別の激しかった時代の出演者やクリエイター達は、出自を偽ることが多かったそうです。当時はまだ東海岸を中心にワスプがアメリカの支配層であり、イタリア系やユダヤ系などの真の出自を表に出してはスターにはなれなかったからであるそうです。
最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられました。
最初から、カリフォルニアにあったのでは無かったんですね。
調べると意外なことがわかりました。
以上、槙谷美貴子でした!
2012年2月13日月曜日
織田信長の歴史
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」です。こんにちは。
今日も、槙谷美貴子が歴史についてお話させていただきますね。
今回お話するのは、織田信長の歴史です。調べたので、紹介させていただきます。
織田信長は、天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として、那古野城で生誕しました。幼名は吉法師であったそうです。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となります。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多かったらしく、周囲から尾張の大うつけと称されていたのだとか。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られているようですね。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていたそうです。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せていたのだとか。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなったそう。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称します。天文17年(1548年)には、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚したそう。
また、天文18年(1549年)に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話があるそうです。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したみたいですね。
天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぎます。その2年後の天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害し、信長は嘆き悲しんで師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立して政秀の霊を弔ったとされています。
当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していたのだそうです。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大したのだとか。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てたそうなんですが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告し、これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害したのだそうです。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害したそう。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めたとされています。これによって織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となったんですね。
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却したようです。この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長に渡されたのだとか。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとしたそうです。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立するんですね。
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免したそうです。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てますが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されているようですね。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てます。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害したのだそう。直接手を下したのは河尻秀隆とされているみたいです。
さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放したのだそう。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となったんですね。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見しました。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕したようです。
織田信長の歴史、こうしてみると面白いですね。
では今日はこのへんで。槙谷美貴子でした。
今日も、槙谷美貴子が歴史についてお話させていただきますね。
今回お話するのは、織田信長の歴史です。調べたので、紹介させていただきます。
織田信長は、天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として、那古野城で生誕しました。幼名は吉法師であったそうです。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となります。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多かったらしく、周囲から尾張の大うつけと称されていたのだとか。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られているようですね。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていたそうです。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せていたのだとか。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなったそう。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称します。天文17年(1548年)には、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚したそう。
また、天文18年(1549年)に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話があるそうです。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したみたいですね。
天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぎます。その2年後の天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害し、信長は嘆き悲しんで師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立して政秀の霊を弔ったとされています。
当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していたのだそうです。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大したのだとか。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てたそうなんですが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告し、これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害したのだそうです。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害したそう。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めたとされています。これによって織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となったんですね。
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却したようです。この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長に渡されたのだとか。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとしたそうです。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立するんですね。
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免したそうです。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てますが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されているようですね。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てます。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害したのだそう。直接手を下したのは河尻秀隆とされているみたいです。
さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放したのだそう。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となったんですね。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見しました。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕したようです。
織田信長の歴史、こうしてみると面白いですね。
では今日はこのへんで。槙谷美貴子でした。
2011年12月9日金曜日
槙谷美貴子とカレーライスの歴史
こんにちは。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」です。今回も槙谷美貴子が気になった歴史を、ここに書かせていただきますね。宜しくお願いします。
今回は、カレーライスの歴史について。詳しい沿革があったので、引用させていただきます。
1863年(文久3年)、江戸幕府の遣欧使節の三宅秀が、船中でインド人が食事する様子を見て「飯の上へ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と日誌に記している。
1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。
1872年(明治5年)、カレーライスのレシピを記した本「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。
1873年(明治6年)、陸軍(幼年生徒隊)食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の洋食食堂「風月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。
1908年(明治41年)、帝国海軍が配布した「海軍割烹術参考書」にカレイライスのレシピが載る。
1910年(明治43年)、帝国陸軍が配布した「軍隊調理法」にカレー汁(およびライスカレー)のレシピが載る。
1924年(大正13年)、東京・神田の簡易食堂「須田町食堂」が、初めて廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せる。
当時の大卒初任給70円、日雇労働者日当1円63銭
1926年(大正15年)、「浦上商店」(現:ハウス食品)が、カレールウ「即席ホームカレー」を発売。翌年、商品名を「即席ハウスカレー」に変更。
1927年(昭和2年)、東京の「新宿中村屋」「資生堂パーラー」が、高級カレーライス(80銭、50銭)をメニューに載せる。
1929年(昭和4年)、大阪・梅田の「阪急百貨店」の大食堂が、廉価(25銭)でライスカレーを販売。
1930年(昭和5年)、山崎峯次郎(エスビー食品の創業者)が、「ヒドリ印カレー粉」を発売。
1931年(昭和6年)、「C&Bカレー事件」発生。イギリスのクロス・アンド・ブラックウェル (C&B) 社のカレー粉は、品質がよいとされていたが値段が高く、増量材を混ぜたり中身を国産品に詰め替えた安価な偽物が出回った。これは日英間の国際問題にまで発展し、偽造グループが逮捕された。
1941年(昭和16年) - 1945年(昭和20年)、戦争による食料統制のため、軍用以外のカレー粉製造・販売が禁止された。また、陸軍ではライスカレーのことを「辛味入汁掛飯」と言い換えるようになった。
1946年(昭和21年)、終戦によりカレー粉の製造・販売が再開された。
1949年(昭和24年)、浦上商店がカレールウ「即席ハウスカレー」の製造を再開。
1954年(昭和29年)、エスビー食品が即席カレールウ分野に進出。
1960年(昭和35年)、ハウス食品工業株式会社(旧浦上商店)がカレールウ「ハウス印度カレー」を発売。以後、インスタントカレールウの主流は固形タイプになる。
1969年(昭和44年)、大塚食品、初のレトルトカレーソース「ボンカレー」を発売。
1982年(昭和57年)、全国学校栄養士協議会が1月22日を「カレーの日」と決め、全国の小中学校で一斉に「カレー給食」を出す。以後この日が、「カレーの日」とされている。
カレーライスの歴史、面白いですね。
何だかカレーが食べたくなってきました(笑)それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今回は、カレーライスの歴史について。詳しい沿革があったので、引用させていただきます。
1863年(文久3年)、江戸幕府の遣欧使節の三宅秀が、船中でインド人が食事する様子を見て「飯の上へ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と日誌に記している。
1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。
1872年(明治5年)、カレーライスのレシピを記した本「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。
1873年(明治6年)、陸軍(幼年生徒隊)食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の洋食食堂「風月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。
1908年(明治41年)、帝国海軍が配布した「海軍割烹術参考書」にカレイライスのレシピが載る。
1910年(明治43年)、帝国陸軍が配布した「軍隊調理法」にカレー汁(およびライスカレー)のレシピが載る。
1924年(大正13年)、東京・神田の簡易食堂「須田町食堂」が、初めて廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せる。
当時の大卒初任給70円、日雇労働者日当1円63銭
1926年(大正15年)、「浦上商店」(現:ハウス食品)が、カレールウ「即席ホームカレー」を発売。翌年、商品名を「即席ハウスカレー」に変更。
1927年(昭和2年)、東京の「新宿中村屋」「資生堂パーラー」が、高級カレーライス(80銭、50銭)をメニューに載せる。
1929年(昭和4年)、大阪・梅田の「阪急百貨店」の大食堂が、廉価(25銭)でライスカレーを販売。
1930年(昭和5年)、山崎峯次郎(エスビー食品の創業者)が、「ヒドリ印カレー粉」を発売。
1931年(昭和6年)、「C&Bカレー事件」発生。イギリスのクロス・アンド・ブラックウェル (C&B) 社のカレー粉は、品質がよいとされていたが値段が高く、増量材を混ぜたり中身を国産品に詰め替えた安価な偽物が出回った。これは日英間の国際問題にまで発展し、偽造グループが逮捕された。
1941年(昭和16年) - 1945年(昭和20年)、戦争による食料統制のため、軍用以外のカレー粉製造・販売が禁止された。また、陸軍ではライスカレーのことを「辛味入汁掛飯」と言い換えるようになった。
1946年(昭和21年)、終戦によりカレー粉の製造・販売が再開された。
1949年(昭和24年)、浦上商店がカレールウ「即席ハウスカレー」の製造を再開。
1954年(昭和29年)、エスビー食品が即席カレールウ分野に進出。
1960年(昭和35年)、ハウス食品工業株式会社(旧浦上商店)がカレールウ「ハウス印度カレー」を発売。以後、インスタントカレールウの主流は固形タイプになる。
1969年(昭和44年)、大塚食品、初のレトルトカレーソース「ボンカレー」を発売。
1982年(昭和57年)、全国学校栄養士協議会が1月22日を「カレーの日」と決め、全国の小中学校で一斉に「カレー給食」を出す。以後この日が、「カレーの日」とされている。
カレーライスの歴史、面白いですね。
何だかカレーが食べたくなってきました(笑)それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年12月5日月曜日
時計の歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です、こんにちは!「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」、今日も始めさせていただきますね!宜しくお願いします!
今回は時計の歴史についてお話させていただきますね。
現在使われている六十進法の時間単位は、紀元前約2000年にシュメールで考えられたものだそうです。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源と言われていますね。彼らはルクソール近郊にあるアメン=ラーの地でおそらく最初に使われたとされる水時計も作っているのだとか。水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれをクレプシドラの名で呼んでいたようです。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が発明されていたそうです。この水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものと考えられているようですね。その他、中国、日本、イギリス、イラクではロウソク時計も使われていて、インド、チベット、一部ヨーロッパでは日時計が広く使われていたそうです。他に、砂時計も使われていたようですね。初期の時計は日時計が多く、曇りや夜には使うことができなかったのだそうです。最もよく使われた日時計はグノモンと呼ばれる形のものだったそうですが、あくまで日時計なので緯度で値が変化したみたいですね。
時計に脱進機(歯車を一定方向に回す装置)を初めて用いたのは8世紀の中国で、水時計にギアとおもりを組み込んだのは11世紀のイスラム教徒だったそうです。脱進機に王冠歯車を用いたのは14世紀のヨーロッパ、16世紀にゼンマイ式の懐中時計ができ、18世紀に振り子時計ができるまで長い間使われていたのだとか。20世紀になると、クオーツ時計、さらには原子時計へと置き換わっていきますね。クォーツ時計は作るのが簡単で正確なので、腕時計によく使われています。原子時計はこれよりもはるかに正確なので、国際標準時間「国際原子時」をきめるのに使われているのだとか。原子時計は協定世界時にも使われているようですね。
時計について、面白いですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今回は時計の歴史についてお話させていただきますね。
現在使われている六十進法の時間単位は、紀元前約2000年にシュメールで考えられたものだそうです。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源と言われていますね。彼らはルクソール近郊にあるアメン=ラーの地でおそらく最初に使われたとされる水時計も作っているのだとか。水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれをクレプシドラの名で呼んでいたようです。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が発明されていたそうです。この水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものと考えられているようですね。その他、中国、日本、イギリス、イラクではロウソク時計も使われていて、インド、チベット、一部ヨーロッパでは日時計が広く使われていたそうです。他に、砂時計も使われていたようですね。初期の時計は日時計が多く、曇りや夜には使うことができなかったのだそうです。最もよく使われた日時計はグノモンと呼ばれる形のものだったそうですが、あくまで日時計なので緯度で値が変化したみたいですね。
時計に脱進機(歯車を一定方向に回す装置)を初めて用いたのは8世紀の中国で、水時計にギアとおもりを組み込んだのは11世紀のイスラム教徒だったそうです。脱進機に王冠歯車を用いたのは14世紀のヨーロッパ、16世紀にゼンマイ式の懐中時計ができ、18世紀に振り子時計ができるまで長い間使われていたのだとか。20世紀になると、クオーツ時計、さらには原子時計へと置き換わっていきますね。クォーツ時計は作るのが簡単で正確なので、腕時計によく使われています。原子時計はこれよりもはるかに正確なので、国際標準時間「国際原子時」をきめるのに使われているのだとか。原子時計は協定世界時にも使われているようですね。
時計について、面白いですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年10月17日月曜日
槙谷美貴子と掃除機の歴史
槙谷美貴子です、こんにちは。今回槙谷美貴子が調べてきたのは、掃除機の歴史についてです。よろしくお願いします。
世界最初の真空掃除機は、1868年にシカゴのアイヴス・マガフィー(Ives W. McGaffey)によって発明されたみたいですね。原理は、手でレバーを引いて真空を作り出し、ノズルからゴミを吸い取って容器に溜めるという簡単なものだったそうです。彼は1869年6月8日にこの特許を取得し、ボストンにあるカーペット清掃会社に売り込むことに成功したのだとか。こうして誕生した世界最初の真空掃除機がシカゴとボストンで発売されたんですが、当時としては$25もする高価なものであり、ノズルをゴミに当てながらいちいち手でレバーを引くのが面倒という欠点のため、やがて市場から姿を消していったのだそうです。
1876年、ミシガン州グランドラピッズのメルヴィル・ビッセルは妻のためにじゅうたんの上のおが屑を掃除するための掃除機を作りました。間もなく、Bissell Carpet Sweepers として製品化。メルヴィルが1889年に亡くなると、妻のアンナが社長となり、当時最も強いビジネスウーマンと呼ばれるようになったのだそうです。1899年には電動機駆動の掃除機をジョン・サーマンが発明します。Bissell社は今も掃除機を含む掃除用品のメーカーとして存続しているそうですね。
最初の電気式真空掃除機は、1901年にイギリスのヒューバート・セシル・ブース(Hubert Cecil Booth)が発明したもので、布フィルターを備えていたのだそうです。彼は列車の座席から塵を吹き飛ばす装置のデモンストレーションを目にし、塵を吸い取った方がずっと役立つと考えたんですね。そのアイデアを試すため、彼はレストランの椅子の上にハンカチを広げ、それを自分の口で吸いつけ、さらに塵を吸い付けてみたのだとか。塵がハンカチの下面に集まったのを見て、彼はそのアイデアがうまくいくと確信したのだそうです。ブースは Puffing Billy と名付けた大きな装置を作ります。石油を使った内燃機関を動力源としていたが、後に電動機を使うようになったそうですね。掃除すべき建物の前まで馬で引いていたみたいです。
そうやって電気式真空掃除機が様々な改良を加えられて、今私たちのよく知る掃除機になったんですね。
それでは今日はこの辺で。失礼します。槙谷美貴子でした。
世界最初の真空掃除機は、1868年にシカゴのアイヴス・マガフィー(Ives W. McGaffey)によって発明されたみたいですね。原理は、手でレバーを引いて真空を作り出し、ノズルからゴミを吸い取って容器に溜めるという簡単なものだったそうです。彼は1869年6月8日にこの特許を取得し、ボストンにあるカーペット清掃会社に売り込むことに成功したのだとか。こうして誕生した世界最初の真空掃除機がシカゴとボストンで発売されたんですが、当時としては$25もする高価なものであり、ノズルをゴミに当てながらいちいち手でレバーを引くのが面倒という欠点のため、やがて市場から姿を消していったのだそうです。
1876年、ミシガン州グランドラピッズのメルヴィル・ビッセルは妻のためにじゅうたんの上のおが屑を掃除するための掃除機を作りました。間もなく、Bissell Carpet Sweepers として製品化。メルヴィルが1889年に亡くなると、妻のアンナが社長となり、当時最も強いビジネスウーマンと呼ばれるようになったのだそうです。1899年には電動機駆動の掃除機をジョン・サーマンが発明します。Bissell社は今も掃除機を含む掃除用品のメーカーとして存続しているそうですね。
最初の電気式真空掃除機は、1901年にイギリスのヒューバート・セシル・ブース(Hubert Cecil Booth)が発明したもので、布フィルターを備えていたのだそうです。彼は列車の座席から塵を吹き飛ばす装置のデモンストレーションを目にし、塵を吸い取った方がずっと役立つと考えたんですね。そのアイデアを試すため、彼はレストランの椅子の上にハンカチを広げ、それを自分の口で吸いつけ、さらに塵を吸い付けてみたのだとか。塵がハンカチの下面に集まったのを見て、彼はそのアイデアがうまくいくと確信したのだそうです。ブースは Puffing Billy と名付けた大きな装置を作ります。石油を使った内燃機関を動力源としていたが、後に電動機を使うようになったそうですね。掃除すべき建物の前まで馬で引いていたみたいです。
そうやって電気式真空掃除機が様々な改良を加えられて、今私たちのよく知る掃除機になったんですね。
それでは今日はこの辺で。失礼します。槙谷美貴子でした。
2011年10月6日木曜日
たばこの歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」、今日も始めさせていただきます。
今回はたばこの歴史についてです。
タバコはナス科タバコ属 (Nicotiana) の一年草で、大規模に栽培されるものは N. tabacum と N. rustica の2種に限られているのだそうです。N. tabacum はニコチン含有量が高いため、商業的に価値があるのはこちらなのだとか。もう一方のN. rustica は寒さに強いとされています。この2種の他にもこれまでに全部で66種が確認されておりまして、そのうち45種が南北アメリカ大陸とその周辺部に生育していたのだそう。そのことから、タバコ属植物誕生の地はアメリカなのではと考えられているようです。
1492年、“黄金の国”を目指したコロンブスが、新大陸(=古代アメリカ大陸)のカリブ海沖にある諸島=西インド諸島の1つであるグアハニ島に上陸し、先住民のアラワク族に友好のしるしとして鏡とガラス玉を贈りました。それに対しアラワク族は珍しい食物や果物などと一緒に香り高い乾燥した葉=「たばこ」の葉を贈ったことが、ヨーロッパの人間が「たばこ」に接した最初の瞬間といわれているのだそうです。アラワク族がたばこを喫煙しているところを発見したのも、このときだったのだとか。
そこから、ヨーロッパに広まり後に全世界に広まったのだそうです。
たばこの歴史、調べてみると面白いですね。
広まった経緯なども色々あるみたいですから、また機会があればより詳しく調べてみたいと思います。
それでは!槙谷美貴子でした。
今回はたばこの歴史についてです。
タバコはナス科タバコ属 (Nicotiana) の一年草で、大規模に栽培されるものは N. tabacum と N. rustica の2種に限られているのだそうです。N. tabacum はニコチン含有量が高いため、商業的に価値があるのはこちらなのだとか。もう一方のN. rustica は寒さに強いとされています。この2種の他にもこれまでに全部で66種が確認されておりまして、そのうち45種が南北アメリカ大陸とその周辺部に生育していたのだそう。そのことから、タバコ属植物誕生の地はアメリカなのではと考えられているようです。
1492年、“黄金の国”を目指したコロンブスが、新大陸(=古代アメリカ大陸)のカリブ海沖にある諸島=西インド諸島の1つであるグアハニ島に上陸し、先住民のアラワク族に友好のしるしとして鏡とガラス玉を贈りました。それに対しアラワク族は珍しい食物や果物などと一緒に香り高い乾燥した葉=「たばこ」の葉を贈ったことが、ヨーロッパの人間が「たばこ」に接した最初の瞬間といわれているのだそうです。アラワク族がたばこを喫煙しているところを発見したのも、このときだったのだとか。
そこから、ヨーロッパに広まり後に全世界に広まったのだそうです。
たばこの歴史、調べてみると面白いですね。
広まった経緯なども色々あるみたいですから、また機会があればより詳しく調べてみたいと思います。
それでは!槙谷美貴子でした。
2011年9月9日金曜日
化粧の歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です!こんにちは。
今日は化粧の歴史について、調べたので、槙谷美貴子がお話させていただきます。
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が塗られていることから、顔に赤土を塗ることが当時の風習であり日本の化粧の始まりで、魔除けのために顔に紅殻(ベンガラ:酸化鉄)を塗る“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進入を防ぐ色とされていたそうですね。
その後、6世紀初頭に始まった遣隋使、遣唐使や中国や朝鮮からの渡来人などにより文字を筆頭に種々の文化、文物の伝来と共に身だしなみ、化粧品、化粧法なども伝えられて魔除けから日本の伝統化粧の始まりとなりましたのだそうです。
化粧は最初、埴輪の顔面に塗られたことから始まったんですね。口紅や頬紅で赤が多いのにも納得がいきました。
化粧の歴史、面白いです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今日は化粧の歴史について、調べたので、槙谷美貴子がお話させていただきます。
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が塗られていることから、顔に赤土を塗ることが当時の風習であり日本の化粧の始まりで、魔除けのために顔に紅殻(ベンガラ:酸化鉄)を塗る“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進入を防ぐ色とされていたそうですね。
その後、6世紀初頭に始まった遣隋使、遣唐使や中国や朝鮮からの渡来人などにより文字を筆頭に種々の文化、文物の伝来と共に身だしなみ、化粧品、化粧法なども伝えられて魔除けから日本の伝統化粧の始まりとなりましたのだそうです。
化粧は最初、埴輪の顔面に塗られたことから始まったんですね。口紅や頬紅で赤が多いのにも納得がいきました。
化粧の歴史、面白いです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年8月8日月曜日
ネットの歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。
今日槙谷美貴子はネットの歴史について調べました
○1960年、インターネットの前身ARPANETに直接影響を及ぼした概念であるJ・C・R・リックライダーのタイムシェアリングシステムが発表。
○1969年10月29日、UCLAとスタンフォード研究所(SRI)間で接続され、同年12月5日までにUCサンタバーバラ、ユタ大学が接続され4つのノードとなる。
○1983年、ARPANETがプロトコルをそれまで利用していたNetwork_Control_ProgramからTCP/IPに切り替える。
○1984年9月、村井純が慶應義塾大学と東京工業大学を接続。同年10月に東京大学が接続され、日本におけるインターネットの起源となる。(JUNET)
○1985年、アメリカの「全国科学財団」による学術研究用のネットワーク基盤NSFNetが作られ、インターネットのバックボーンの役割がARPANETからNSFNetへ移行する。
○1988年、アメリカで商用インターネットが始まる。1989年、商用ネットワークとNSFNetとの接続が開始される。
○1990年、スイスの素粒子物理学研究所・CERNの研究員であったティム・バーナーズ=リーは、当時上司だったロバート・カイリューらの協力によりWorld Wide Webシステムのための最初のサーバとブラウザを完成させる。
○1994年7月、アメリカ・タイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」という記事が掲載される。ARPANET立ち上げ時のIPTO責任者であったロバート・テイラーは、この記事に対して事実とは異なる旨、正式な抗議をタイム誌に対して行った。以降、ARPANETは核戦争時のための軍事ネットであるという俗説が流布するようになる。
○1995年には、NSFNetは民間へ移管され、Windows95の登場で一般個人でのインターネットの利用に加速がつく。なお、Windows95の初期バージョンではインターネット関連の機能は「Microsoft Plus!」による拡張機能とされていたが、OSR2以降は標準搭載されている。
以上、ウィキペディアより引用させていただきました。世界的に常時接続環境が提供されているのは都市部が中心で、地方や離島での情報格差が問題になっているそうですね。また、発展途上国では多くの国民にとって端末であるパソコンが高価であり通信料金も高いため、インターネットカフェがインターネットの普及を支えているのだそうです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今日槙谷美貴子はネットの歴史について調べました
○1960年、インターネットの前身ARPANETに直接影響を及ぼした概念であるJ・C・R・リックライダーのタイムシェアリングシステムが発表。
○1969年10月29日、UCLAとスタンフォード研究所(SRI)間で接続され、同年12月5日までにUCサンタバーバラ、ユタ大学が接続され4つのノードとなる。
○1983年、ARPANETがプロトコルをそれまで利用していたNetwork_Control_ProgramからTCP/IPに切り替える。
○1984年9月、村井純が慶應義塾大学と東京工業大学を接続。同年10月に東京大学が接続され、日本におけるインターネットの起源となる。(JUNET)
○1985年、アメリカの「全国科学財団」による学術研究用のネットワーク基盤NSFNetが作られ、インターネットのバックボーンの役割がARPANETからNSFNetへ移行する。
○1988年、アメリカで商用インターネットが始まる。1989年、商用ネットワークとNSFNetとの接続が開始される。
○1990年、スイスの素粒子物理学研究所・CERNの研究員であったティム・バーナーズ=リーは、当時上司だったロバート・カイリューらの協力によりWorld Wide Webシステムのための最初のサーバとブラウザを完成させる。
○1994年7月、アメリカ・タイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」という記事が掲載される。ARPANET立ち上げ時のIPTO責任者であったロバート・テイラーは、この記事に対して事実とは異なる旨、正式な抗議をタイム誌に対して行った。以降、ARPANETは核戦争時のための軍事ネットであるという俗説が流布するようになる。
○1995年には、NSFNetは民間へ移管され、Windows95の登場で一般個人でのインターネットの利用に加速がつく。なお、Windows95の初期バージョンではインターネット関連の機能は「Microsoft Plus!」による拡張機能とされていたが、OSR2以降は標準搭載されている。
以上、ウィキペディアより引用させていただきました。世界的に常時接続環境が提供されているのは都市部が中心で、地方や離島での情報格差が問題になっているそうですね。また、発展途上国では多くの国民にとって端末であるパソコンが高価であり通信料金も高いため、インターネットカフェがインターネットの普及を支えているのだそうです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年8月1日月曜日
缶コーヒーの歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。
今日も色んなものの歴史についてお話させていただきます。今日は缶コーヒーについて。
缶コーヒーが出来る前は、コーヒーは駅などで瓶に入れて販売されており飲み終わったら瓶を返却していたみたいですね。しかし、創業者の上島忠雄さんは列車の発車に間に合わず飲み残しのまま売店に返却したことをひどく痛んで、何かいいものはないかと模索した中で加藤顕さんの「缶に入れてはどうか?」とのアイデアを生かし発売に至った…のだとか。
話によると、1980年までは250mg缶が主流だったそうです。その後、190mgは量が少なくしたことで美味しさをアピールしたことが受けたため、爆発的にヒットしたのだとか。それ以降どの会社でも缶コーヒーはショート缶という定説になったみたいですね。同じ頃、缶コーヒーの蓋の散乱が問題視されて飲み口が分離タイプの「プルタブ」から「ステイオンタブ」へ変更になります。
因みに、現在の販売量の順位は1位ジョージア、2位ボス、ワンダ、ファイアーとなっているみたいですよ。
今日も色んなものの歴史についてお話させていただきます。今日は缶コーヒーについて。
缶コーヒーが出来る前は、コーヒーは駅などで瓶に入れて販売されており飲み終わったら瓶を返却していたみたいですね。しかし、創業者の上島忠雄さんは列車の発車に間に合わず飲み残しのまま売店に返却したことをひどく痛んで、何かいいものはないかと模索した中で加藤顕さんの「缶に入れてはどうか?」とのアイデアを生かし発売に至った…のだとか。
話によると、1980年までは250mg缶が主流だったそうです。その後、190mgは量が少なくしたことで美味しさをアピールしたことが受けたため、爆発的にヒットしたのだとか。それ以降どの会社でも缶コーヒーはショート缶という定説になったみたいですね。同じ頃、缶コーヒーの蓋の散乱が問題視されて飲み口が分離タイプの「プルタブ」から「ステイオンタブ」へ変更になります。
因みに、現在の販売量の順位は1位ジョージア、2位ボス、ワンダ、ファイアーとなっているみたいですよ。
2011年7月20日水曜日
紙幣の歴史と槙谷美貴子
こんにちは!槙谷美貴子です!
少し時間が空いてしまって申し訳ないです。今日も、槙谷美貴子が興味を持ったものの歴史について、お話させていただきますね。
今回お話するのは、紙幣の歴史です。
本来貨幣は貴金属など普遍的な価値を持つ財貨そのもので、昔から王侯がコインの鋳造権を独占して市場に流通させていたのだそうです。これらの貴金属による貨幣は運搬に不便であるだけでなく、摩耗による減価の問題もあったため、次第に貴金属との交換を保証された債務証書(手形)に置き換わっていったんですね。これが紙幣のはじまりなのだそうです。
世界初の紙幣は宋代に鉄銭の預り証として発行された交子みたいですね。ヨーロッパでは、民間の銀行が発行した金銀の預り証である金匠手形 (Goldsmith's note) が通貨として流通していたそうですが、国家による承認を受けたものとしては1661年にスウェーデンの民間銀行・ストックホルム銀行が発行したのが、銀行券としては最初のものだそうです。また、1694年には英国でイングランド銀行が設立され、同行の約束手形が発行されたのだとか。同行の約束手形は当初手書きだったみたいなんですが、のちに印刷に改められたことにより、交換手形として広く流通し始めたみたいですね。イングランド銀行は1844年のピール銀行条例によって英国唯一の発券銀行とされました。
近代になって、金本位制(または銀本位制)が確立し、本位貨幣たる金貨や銀貨又は銀行に保管する金地金等と交換ができる紙幣は兌換紙幣と呼ばれ、券面にはそれらの記載があったそうです。例えば、アメリカでは、ブルーシールの兌換銀券とイエローシールの兌換金券があったみたいですよ。
しかし、1929年の世界恐慌以降、財政・金融政策が困難になるなどの理由から各国で金本位制を廃止し、管理通貨制度へ移行、多くの国の紙幣は兌換紙幣から正貨との交換が出来ない不換紙幣となってしまいます。普遍的な財貨である金銀との交換価値が失われた紙幣は、時に政府による濫発や中央銀行による国債大量引き受けなどでハイパーインフレを引き起こしたそうですが、中央銀行による不断の通貨安定政策により一定の信頼を得て、中心的な法貨として国民生活に広く流通していますね。
紙幣の歴史、写真も一緒に見ると本当に面白いですね。暇なときにでも検索してみると、いい暇つぶしになると思います。
それでは今日はこの辺で。失礼します。槙谷美貴子でした。
少し時間が空いてしまって申し訳ないです。今日も、槙谷美貴子が興味を持ったものの歴史について、お話させていただきますね。
今回お話するのは、紙幣の歴史です。
本来貨幣は貴金属など普遍的な価値を持つ財貨そのもので、昔から王侯がコインの鋳造権を独占して市場に流通させていたのだそうです。これらの貴金属による貨幣は運搬に不便であるだけでなく、摩耗による減価の問題もあったため、次第に貴金属との交換を保証された債務証書(手形)に置き換わっていったんですね。これが紙幣のはじまりなのだそうです。
世界初の紙幣は宋代に鉄銭の預り証として発行された交子みたいですね。ヨーロッパでは、民間の銀行が発行した金銀の預り証である金匠手形 (Goldsmith's note) が通貨として流通していたそうですが、国家による承認を受けたものとしては1661年にスウェーデンの民間銀行・ストックホルム銀行が発行したのが、銀行券としては最初のものだそうです。また、1694年には英国でイングランド銀行が設立され、同行の約束手形が発行されたのだとか。同行の約束手形は当初手書きだったみたいなんですが、のちに印刷に改められたことにより、交換手形として広く流通し始めたみたいですね。イングランド銀行は1844年のピール銀行条例によって英国唯一の発券銀行とされました。
近代になって、金本位制(または銀本位制)が確立し、本位貨幣たる金貨や銀貨又は銀行に保管する金地金等と交換ができる紙幣は兌換紙幣と呼ばれ、券面にはそれらの記載があったそうです。例えば、アメリカでは、ブルーシールの兌換銀券とイエローシールの兌換金券があったみたいですよ。
しかし、1929年の世界恐慌以降、財政・金融政策が困難になるなどの理由から各国で金本位制を廃止し、管理通貨制度へ移行、多くの国の紙幣は兌換紙幣から正貨との交換が出来ない不換紙幣となってしまいます。普遍的な財貨である金銀との交換価値が失われた紙幣は、時に政府による濫発や中央銀行による国債大量引き受けなどでハイパーインフレを引き起こしたそうですが、中央銀行による不断の通貨安定政策により一定の信頼を得て、中心的な法貨として国民生活に広く流通していますね。
紙幣の歴史、写真も一緒に見ると本当に面白いですね。暇なときにでも検索してみると、いい暇つぶしになると思います。
それでは今日はこの辺で。失礼します。槙谷美貴子でした。
2011年7月7日木曜日
現代英語と槙谷美貴子
こんにちは!「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」の、槙谷美貴子です。今日は近代英語までで止まっていた英語史の歴史の、最後、現代英語についてお話させていただきます。よろしくお願いします。
20世紀になりますと、イギリスが世界覇権を握るに従い、英語話者の人口が増大することとなります。世界各国からの語彙の流入も継続し、日本語からは tsunami、manga、kamikaze などが辞書に登録されるようになったみたいですね。
アメリカではアフリカ系移民が生み出した歌唱的要素を豊富に含む黒人英語が成立しました。この黒人英語と、アメリカ原住民の言葉、移民たちが持っていった近代英語がアメリカ英語(米語)を成立させたのだとか。米語は英語の方言であるが、分離後400年をへて、その隔たりはかなり大きいものとなっているのだそうです。
黒人英語には jitter、bogus、yam などがありますが、その中でも都会に住む黒人を中心に使われている口語は、流行語・歌唱語としてアメリカや、さらに世界中に影響を与えることがしばしばだそうです。
離島などでは古い語彙が残りやすいそうなんですが、アメリカもその例に漏れず、fall(秋)、quit(止める)、trash(ごみ)などの言葉、用法はイギリスではかつて存在しましたが、現代ではもう使われていないのだとか。また、イギリスでの意味・用法からずれ、発展していった言葉もあるのだそうです。
また、アメリカで使われる英語の特徴として、品詞を変えて使用したり、長単語の代わりに熟語を使ったりするなど、簡略化の傾向が見られるみたいですね。
アメリカの覇権が確立すると共に、アメリカ式の英語の影響力は強まり、現在では逆に英語(イギリス英語)にも影響を与えるようになっていますね。
以上、英語の歴史でした。
それでは今日はこの辺で。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」の、槙谷美貴子でした。
20世紀になりますと、イギリスが世界覇権を握るに従い、英語話者の人口が増大することとなります。世界各国からの語彙の流入も継続し、日本語からは tsunami、manga、kamikaze などが辞書に登録されるようになったみたいですね。
アメリカではアフリカ系移民が生み出した歌唱的要素を豊富に含む黒人英語が成立しました。この黒人英語と、アメリカ原住民の言葉、移民たちが持っていった近代英語がアメリカ英語(米語)を成立させたのだとか。米語は英語の方言であるが、分離後400年をへて、その隔たりはかなり大きいものとなっているのだそうです。
黒人英語には jitter、bogus、yam などがありますが、その中でも都会に住む黒人を中心に使われている口語は、流行語・歌唱語としてアメリカや、さらに世界中に影響を与えることがしばしばだそうです。
離島などでは古い語彙が残りやすいそうなんですが、アメリカもその例に漏れず、fall(秋)、quit(止める)、trash(ごみ)などの言葉、用法はイギリスではかつて存在しましたが、現代ではもう使われていないのだとか。また、イギリスでの意味・用法からずれ、発展していった言葉もあるのだそうです。
また、アメリカで使われる英語の特徴として、品詞を変えて使用したり、長単語の代わりに熟語を使ったりするなど、簡略化の傾向が見られるみたいですね。
アメリカの覇権が確立すると共に、アメリカ式の英語の影響力は強まり、現在では逆に英語(イギリス英語)にも影響を与えるようになっていますね。
以上、英語の歴史でした。
それでは今日はこの辺で。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」の、槙谷美貴子でした。
2011年7月1日金曜日
近代英語と槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。
今日は近代英語について槙谷美貴子がお話させていただきますね。
中英語の後、15世紀から16世紀にかけて、発音と綴りが著しく異なるようになったそうです。それまで「フィーヴェ」は five、「ロート」は root、「セーク」は seek というように、綴りは発音のとおりだったんですが、この時期から発音が大きく変化し、その一方で綴りについては「発音の変化にあわせて改定する」ということを一度も行わなかったため、両者の間に乖離が生じ、現在の英語学習者の頭痛の遠因ともなっているのだとか。
また、16世紀から17世紀には、啓蒙時代の文人たちが、「粗野な」英語の水準を高めようと、ラテン語、ギリシャ語を借用したため、学術用語を中心に数百ものラテン語が定着したのだそうです。例えばmcynic、analogy、animate、explain、communicate などですね。
一方でフランスとの交流も相変わらず盛んだったため、フランス語も絶え間なく流入したようです。しかし、以前のノルマン・コンクエスト時代に入ってきたフランス語と同じ単語が重ねて入ってくることもあり、その場合は違った形と意味で借用されたのだとか。assay(金銀の含有量を調べる)は1338年に入ってきた言葉ですが、フランスではその後意味が広がり、「試みる」の意味となり、それが1597年に再流入してきた時には essay(試みる、随筆)となったみたいですね。
また、大航海時代の到来と共にイギリスの生活圏が広がり、世界各国から新しい単語が入ってきたのもこの時代の特徴だと言われています。例えば、イタリア語から ballot、スペイン語から cigar、ポリネシア語からtaboo、ペルシャ語から(ヒンディー語を経由)pyjamasなど。
機会があれば近代英語までお話したいところです(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今日は近代英語について槙谷美貴子がお話させていただきますね。
中英語の後、15世紀から16世紀にかけて、発音と綴りが著しく異なるようになったそうです。それまで「フィーヴェ」は five、「ロート」は root、「セーク」は seek というように、綴りは発音のとおりだったんですが、この時期から発音が大きく変化し、その一方で綴りについては「発音の変化にあわせて改定する」ということを一度も行わなかったため、両者の間に乖離が生じ、現在の英語学習者の頭痛の遠因ともなっているのだとか。
また、16世紀から17世紀には、啓蒙時代の文人たちが、「粗野な」英語の水準を高めようと、ラテン語、ギリシャ語を借用したため、学術用語を中心に数百ものラテン語が定着したのだそうです。例えばmcynic、analogy、animate、explain、communicate などですね。
一方でフランスとの交流も相変わらず盛んだったため、フランス語も絶え間なく流入したようです。しかし、以前のノルマン・コンクエスト時代に入ってきたフランス語と同じ単語が重ねて入ってくることもあり、その場合は違った形と意味で借用されたのだとか。assay(金銀の含有量を調べる)は1338年に入ってきた言葉ですが、フランスではその後意味が広がり、「試みる」の意味となり、それが1597年に再流入してきた時には essay(試みる、随筆)となったみたいですね。
また、大航海時代の到来と共にイギリスの生活圏が広がり、世界各国から新しい単語が入ってきたのもこの時代の特徴だと言われています。例えば、イタリア語から ballot、スペイン語から cigar、ポリネシア語からtaboo、ペルシャ語から(ヒンディー語を経由)pyjamasなど。
機会があれば近代英語までお話したいところです(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年6月30日木曜日
槙谷美貴子と中英語
槙谷美貴子です、こんにちは!今日もまた、槙谷美貴子が英語史の続きをお話させていただきます。よろしく尾根阿木します。
ノルマン・コンクエストの結果、イギリスの支配階級はほとんどノルマン系フランス語しか話さない人々によって占められることになり、フランス語が大量に流入したそうです。その結果上流階級の話すフランス系語彙と、中下層階級のゲルマン系語彙の二系統が混在する現在の英語ができ上がったんですね。例えば、mutton(食用の羊肉) - sheep(家畜の羊)、beef(食用の牛肉)- cow(酪農用の牛)など。つまり貴族は食べ、庶民がその肉を養うということだそうです。
この時期にフランス語から英語に入った語には pavilion、tennis、umpire、nasty、bribe、gentle などがあるみたいですね。そのときまでに英語には十分な語彙が存在していたため、新しく入ってきたフランス語は従来の英語の意味を変えたり、変えられたりして定着し、結果として英語の表現力は大きく向上したそうです。例えば、判決を下すの英語は元来 doom だったんですが、それはフランス語由来の judge にとって代わられ、doom は「最後の審判」という特殊な意味へと変化していったんですね。
しかし、ノルマン人は少数だったため、13世紀になると英語がイギリスの国語としての地位を確立し始め、百年戦争の敗退などを受けて14世紀には貴族でさえ英語を母語とするに至ったそうです。ですがこの間にフランス語から借用された語彙は一万語におよび、その75%が現在まで残っているのだとか。
長らく英語では話し言葉と書き言葉(ラテン語)が分離していたが、ルネサンスの運動がようやくイギリスにも伝わると、両者を一致させる動きが現れ、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』などができ上がったみたいです。
古英語期にはアルフレッド大王の文教政策が功を奏し、ウェセックス方言によるテクストが多く残り、1つの「標準語」として認められていますが、中英語期には前述のような階級間でのかなり目立った言語格差が見られたり、フランス語からの影響を多大に受けていたことも手伝って、中英語は言語的にかなり過渡的で流動的なものだったといえるのだとか。したがって、古英語のように形態論、統語論を「中英語」という枠で一般的に記述することはきわめて難しいみたいですね。その場合には、チョーサーが用いた「東イングランド」方言に限定するなど、時代・地域の的を絞る必要があるそうです。それほど時代・方言によって違いの多い時期だったのだとか。
11世紀から15世紀にかけてのお話です。
少しずつ成長していっているみたいで、本当に調べるのが楽しいです(笑)この時代をもとにした映画なんか、見てみたくなりました(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
ノルマン・コンクエストの結果、イギリスの支配階級はほとんどノルマン系フランス語しか話さない人々によって占められることになり、フランス語が大量に流入したそうです。その結果上流階級の話すフランス系語彙と、中下層階級のゲルマン系語彙の二系統が混在する現在の英語ができ上がったんですね。例えば、mutton(食用の羊肉) - sheep(家畜の羊)、beef(食用の牛肉)- cow(酪農用の牛)など。つまり貴族は食べ、庶民がその肉を養うということだそうです。
この時期にフランス語から英語に入った語には pavilion、tennis、umpire、nasty、bribe、gentle などがあるみたいですね。そのときまでに英語には十分な語彙が存在していたため、新しく入ってきたフランス語は従来の英語の意味を変えたり、変えられたりして定着し、結果として英語の表現力は大きく向上したそうです。例えば、判決を下すの英語は元来 doom だったんですが、それはフランス語由来の judge にとって代わられ、doom は「最後の審判」という特殊な意味へと変化していったんですね。
しかし、ノルマン人は少数だったため、13世紀になると英語がイギリスの国語としての地位を確立し始め、百年戦争の敗退などを受けて14世紀には貴族でさえ英語を母語とするに至ったそうです。ですがこの間にフランス語から借用された語彙は一万語におよび、その75%が現在まで残っているのだとか。
長らく英語では話し言葉と書き言葉(ラテン語)が分離していたが、ルネサンスの運動がようやくイギリスにも伝わると、両者を一致させる動きが現れ、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』などができ上がったみたいです。
古英語期にはアルフレッド大王の文教政策が功を奏し、ウェセックス方言によるテクストが多く残り、1つの「標準語」として認められていますが、中英語期には前述のような階級間でのかなり目立った言語格差が見られたり、フランス語からの影響を多大に受けていたことも手伝って、中英語は言語的にかなり過渡的で流動的なものだったといえるのだとか。したがって、古英語のように形態論、統語論を「中英語」という枠で一般的に記述することはきわめて難しいみたいですね。その場合には、チョーサーが用いた「東イングランド」方言に限定するなど、時代・地域の的を絞る必要があるそうです。それほど時代・方言によって違いの多い時期だったのだとか。
11世紀から15世紀にかけてのお話です。
少しずつ成長していっているみたいで、本当に調べるのが楽しいです(笑)この時代をもとにした映画なんか、見てみたくなりました(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年6月29日水曜日
英語史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。
今日は、英語の歴史、英語史について、槙谷美貴子がお話させていただきます。よろしくお願いします。
現在直接辿れる英語の最古の祖先は印欧祖語とされています。印欧祖語はかつて黒海沿岸に居住していた民族が使用していた言語であると推定されていてmそこから幾つもの言語集団がインドからイラン、ヨーロッパにかけて移動し、ヒンディー語、ペルシャ語や、ヨーロッパの諸言語として分かれていったと考えられているのだとか。このうち黒海からヨーロッパ北部へ分かれた言語がゲルマン祖語と想定されています。これをルーツとする言語集団をゲルマン語派と言い、その中に現在の英語、ドイツ語、オランダ語、北欧諸言語が含まれていたのだとか。
そのゲルマン族のうち、ドイツ西北部に移住した部族にアングル人・サクソン人・ジュート人がおり、しばらくそこに住んでいたがやがて4世紀頃にフン族の圧迫で西部に押し出され、ブリテン島に渡っていきます。
ブリテン諸島 には古くからブリトン族などのケルト人が住んでいましたが、 紀元43年、第4代ローマ皇帝クラウディウスの征服により、現在のイングランドとウェールズに当たる地方がローマ帝国に組み込まれました(ブリタンニア属州)。しかし、帝国が衰退するにつれ、ローマ軍は大陸へ撤退せざるを得なくなり、その空白を縫ってゲルマン人の部族であるアングル人・サクソン人・ジュート人が5世紀頃ブリテン島に侵出し、ケルト系住民を西北に押しやって定住したのだとか。
彼らは七つの王国を樹立し(七王国時代)、あい争っていたが9世紀に統一され、この王朝のもとで古期英語が隆盛したそうです。アングル族(ドイツ北部アンゲルン半島出身)・サクソン族(ドイツ低地ザクセン州出身)の言語が英語のベースとなっているため、英語の最も基礎的な語彙、文法はゲルマン語に基づくみたいですね。例えば、folk、mind、ghost、shape、with などがそうみたいです。
また、大陸からキリスト教典などのラテン語文献も翻訳し、およそ450語のラテン語彙が流入し、ましたが、これらは主に宗教、学術用語であったそうです。これは現在もほぼ同じ形で使用されていますね。例えば、angel、candle、organ、Antichrist、prophet、disciple などだそうです。
8世紀頃からデーン人(バイキング)の侵略が激しくなり、王国は崩壊し、11世紀始めにはイングランドはデンマーク王クヌートの支配下に入ります。この長い混乱の過程で古ノルド語の語彙が英語に入ってきたのだそうです。古ノルド語も英語と同じくゲルマン語であるため、英語は古ノルド語から数千もの日常語彙を借用したのだとか。これはawkward、band、bank、weak、die、grasp などがそうみたいです。また、三人称複数を表す they、their、them も古ノルド語からの借用みたいですね。
古英語の時代は、古ノルド語などの影響もあったものの、外来語をそのまま借用することは後述する中英語や近代英語時代と比べて少なく、heofon-cyning(天の王→神)や mere-hengest(海の馬→船)という風に、単語と単語を合成させる複合語(ケニング kenning)を造り出していたそうです。しかし、これらのほとんどは中英語期以降にフランス語やラテン語からの借用語に取って代わられ、現代英語ではほとんどが廃語になっているのだとか。
王の死後、アングロ・サクソン人の支配は復活するが、その支配力は弱く、内乱が相次いだため、最終的には、フランス北部にいたノルマン人に占領されてしまいます。
まとめれば、5世紀から11世紀という中世前半に、アングロ・サクソン人のゲルマン語が母体となって、ラテン語・フランス語・古ノルド語の影響を受けて、英語ができ上がっていったんですね。English とは「アングル(Angle)族の言葉」、という意味なのだそうです。
英語史、まだまだあるんですが、今日はこの辺で。また機会がありましたら、ここでご紹介させていただきたいと思っています。よろしくお願いします。槙谷美貴子でした。
今日は、英語の歴史、英語史について、槙谷美貴子がお話させていただきます。よろしくお願いします。
現在直接辿れる英語の最古の祖先は印欧祖語とされています。印欧祖語はかつて黒海沿岸に居住していた民族が使用していた言語であると推定されていてmそこから幾つもの言語集団がインドからイラン、ヨーロッパにかけて移動し、ヒンディー語、ペルシャ語や、ヨーロッパの諸言語として分かれていったと考えられているのだとか。このうち黒海からヨーロッパ北部へ分かれた言語がゲルマン祖語と想定されています。これをルーツとする言語集団をゲルマン語派と言い、その中に現在の英語、ドイツ語、オランダ語、北欧諸言語が含まれていたのだとか。
そのゲルマン族のうち、ドイツ西北部に移住した部族にアングル人・サクソン人・ジュート人がおり、しばらくそこに住んでいたがやがて4世紀頃にフン族の圧迫で西部に押し出され、ブリテン島に渡っていきます。
ブリテン諸島 には古くからブリトン族などのケルト人が住んでいましたが、 紀元43年、第4代ローマ皇帝クラウディウスの征服により、現在のイングランドとウェールズに当たる地方がローマ帝国に組み込まれました(ブリタンニア属州)。しかし、帝国が衰退するにつれ、ローマ軍は大陸へ撤退せざるを得なくなり、その空白を縫ってゲルマン人の部族であるアングル人・サクソン人・ジュート人が5世紀頃ブリテン島に侵出し、ケルト系住民を西北に押しやって定住したのだとか。
彼らは七つの王国を樹立し(七王国時代)、あい争っていたが9世紀に統一され、この王朝のもとで古期英語が隆盛したそうです。アングル族(ドイツ北部アンゲルン半島出身)・サクソン族(ドイツ低地ザクセン州出身)の言語が英語のベースとなっているため、英語の最も基礎的な語彙、文法はゲルマン語に基づくみたいですね。例えば、folk、mind、ghost、shape、with などがそうみたいです。
また、大陸からキリスト教典などのラテン語文献も翻訳し、およそ450語のラテン語彙が流入し、ましたが、これらは主に宗教、学術用語であったそうです。これは現在もほぼ同じ形で使用されていますね。例えば、angel、candle、organ、Antichrist、prophet、disciple などだそうです。
8世紀頃からデーン人(バイキング)の侵略が激しくなり、王国は崩壊し、11世紀始めにはイングランドはデンマーク王クヌートの支配下に入ります。この長い混乱の過程で古ノルド語の語彙が英語に入ってきたのだそうです。古ノルド語も英語と同じくゲルマン語であるため、英語は古ノルド語から数千もの日常語彙を借用したのだとか。これはawkward、band、bank、weak、die、grasp などがそうみたいです。また、三人称複数を表す they、their、them も古ノルド語からの借用みたいですね。
古英語の時代は、古ノルド語などの影響もあったものの、外来語をそのまま借用することは後述する中英語や近代英語時代と比べて少なく、heofon-cyning(天の王→神)や mere-hengest(海の馬→船)という風に、単語と単語を合成させる複合語(ケニング kenning)を造り出していたそうです。しかし、これらのほとんどは中英語期以降にフランス語やラテン語からの借用語に取って代わられ、現代英語ではほとんどが廃語になっているのだとか。
王の死後、アングロ・サクソン人の支配は復活するが、その支配力は弱く、内乱が相次いだため、最終的には、フランス北部にいたノルマン人に占領されてしまいます。
まとめれば、5世紀から11世紀という中世前半に、アングロ・サクソン人のゲルマン語が母体となって、ラテン語・フランス語・古ノルド語の影響を受けて、英語ができ上がっていったんですね。English とは「アングル(Angle)族の言葉」、という意味なのだそうです。
英語史、まだまだあるんですが、今日はこの辺で。また機会がありましたら、ここでご紹介させていただきたいと思っています。よろしくお願いします。槙谷美貴子でした。
2011年6月28日火曜日
ポール・セザンヌについてと槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。
今回は、フランスの歴史的画家、ポール・セザンヌについてお話させていただこうかと思います。よろしくお願いします。
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日(10月23日説もあるそう))はフランスの画家です。当初はモネやルノワール等と共に印象派のグループの一員として活動していたそうなんですが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求したそう。
「多角的な視点の採用、対象の内面に迫る心情性に富んだ形体・色彩の表現、単純化された堅牢な造形性など印象主義的なアプローチとは異なる、独自性に溢れた革新的な表現方法によって絵画を制作」していることが特徴です。
セザンヌはモネら印象派の画家たちと同時代の人物ですが、ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及されますね。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えたとされています。
私もセザンヌの絵画はよく見るんですが、その当時にしては前衛的なタッチなんですよね。彼の登場によってぐんと絵画の幅が広がったのがよく分かります。絵の歴史も、楽しいものです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今回は、フランスの歴史的画家、ポール・セザンヌについてお話させていただこうかと思います。よろしくお願いします。
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日(10月23日説もあるそう))はフランスの画家です。当初はモネやルノワール等と共に印象派のグループの一員として活動していたそうなんですが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求したそう。
「多角的な視点の採用、対象の内面に迫る心情性に富んだ形体・色彩の表現、単純化された堅牢な造形性など印象主義的なアプローチとは異なる、独自性に溢れた革新的な表現方法によって絵画を制作」していることが特徴です。
セザンヌはモネら印象派の画家たちと同時代の人物ですが、ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及されますね。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えたとされています。
私もセザンヌの絵画はよく見るんですが、その当時にしては前衛的なタッチなんですよね。彼の登場によってぐんと絵画の幅が広がったのがよく分かります。絵の歴史も、楽しいものです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年6月27日月曜日
フランス人の歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。
今日はフランス人の歴史を、槙谷美貴子がお話させていただきます。よろしくお願いします。
ローマ時代以前、ガリア全域(現在のフランス、ベルギーの全域とドイツ、スイス、北イタリアの一部を含む西ヨーロッパの領域)には、集合的にガリア人として知られるさまざまな部族が居住していました。彼らの祖先は紀元前7世紀ごろに中央ヨーロッパからきたケルト人で、彼らは土着の人々(主にリグリア人)を支配していたそうです。
ガリアは紀元前58年から51年ごろにユリウス・カエサル指揮下のローマ軍に征服され、ローマ帝国の版図に含まれることとなりました。続く5世紀を通じて、ガリアとローマの人々、そして文化が混淆し、ガロ・ローマ文化が形成されていったんですね。俗ラテン語の諸方言が地域の支配言語となり、土着のケルト語は、ほとんどの場合、方言の中に痕跡を留めるだけになっていきます。今日、フランスにおけるケルト文化・ケルト言語の唯一残存する地域は北西のブルターニュのみですが、これもガリア語が生き残ったわけではなく、中世にコーンウォールからケルト人が移り住んだためとされています。
西ヨーロッパにおけるローマ帝国支配の衰退によって、3番目の集団がこの地域に流入してきました。すなわちフランク人であり、「フランス」という言葉の語源は彼らに由来するのだそうです。フランク人は、3世紀ごろから、現在のドイツにあたる地域から、徐々にライン川をわたりはじめていたゲルマン系部族だそうです。6世紀初めには、フランク人は、メロヴィング朝の王クロヴィス1世とその息子に率いられ、現在のフランスほぼ全ての地域に支配権を確立し、その国に彼らの名前を与えたんですね。フランスに到来したその他の主なゲルマン系部族は、ノルマン人(現デンマーク及びノルウェーに居住したヴァイキング族)であり、彼らは9世紀に、今日のノルマンディーにあたる北の地域を占領しました。ヴァイキングは次第に土着の人々と婚姻をし、キリスト教を受容していったそうです。そしてノルマン人は、2世紀後にイングランドを征服するんですね。ですが、中世、独立したノルマン公国は次第にフランス王国に再度取り込まれていきました。なお、フランク人から21世紀のフランス人へは直接の血統のつながりを見出すことはほとんど不可能だとされています。
フランス人についての歴史、やっぱり面白いですね。フランスには興味深い建築物もあるので、それについてもまた機会があれば書いていきたいです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今日はフランス人の歴史を、槙谷美貴子がお話させていただきます。よろしくお願いします。
ローマ時代以前、ガリア全域(現在のフランス、ベルギーの全域とドイツ、スイス、北イタリアの一部を含む西ヨーロッパの領域)には、集合的にガリア人として知られるさまざまな部族が居住していました。彼らの祖先は紀元前7世紀ごろに中央ヨーロッパからきたケルト人で、彼らは土着の人々(主にリグリア人)を支配していたそうです。
ガリアは紀元前58年から51年ごろにユリウス・カエサル指揮下のローマ軍に征服され、ローマ帝国の版図に含まれることとなりました。続く5世紀を通じて、ガリアとローマの人々、そして文化が混淆し、ガロ・ローマ文化が形成されていったんですね。俗ラテン語の諸方言が地域の支配言語となり、土着のケルト語は、ほとんどの場合、方言の中に痕跡を留めるだけになっていきます。今日、フランスにおけるケルト文化・ケルト言語の唯一残存する地域は北西のブルターニュのみですが、これもガリア語が生き残ったわけではなく、中世にコーンウォールからケルト人が移り住んだためとされています。
西ヨーロッパにおけるローマ帝国支配の衰退によって、3番目の集団がこの地域に流入してきました。すなわちフランク人であり、「フランス」という言葉の語源は彼らに由来するのだそうです。フランク人は、3世紀ごろから、現在のドイツにあたる地域から、徐々にライン川をわたりはじめていたゲルマン系部族だそうです。6世紀初めには、フランク人は、メロヴィング朝の王クロヴィス1世とその息子に率いられ、現在のフランスほぼ全ての地域に支配権を確立し、その国に彼らの名前を与えたんですね。フランスに到来したその他の主なゲルマン系部族は、ノルマン人(現デンマーク及びノルウェーに居住したヴァイキング族)であり、彼らは9世紀に、今日のノルマンディーにあたる北の地域を占領しました。ヴァイキングは次第に土着の人々と婚姻をし、キリスト教を受容していったそうです。そしてノルマン人は、2世紀後にイングランドを征服するんですね。ですが、中世、独立したノルマン公国は次第にフランス王国に再度取り込まれていきました。なお、フランク人から21世紀のフランス人へは直接の血統のつながりを見出すことはほとんど不可能だとされています。
フランス人についての歴史、やっぱり面白いですね。フランスには興味深い建築物もあるので、それについてもまた機会があれば書いていきたいです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年6月24日金曜日
日本家屋の歴史と槙谷美貴子
こんにちはー。槙谷美貴子です。近頃暑いですね。歴史に関する建物に行きたいんですが、こう暑いと行く気が起きません(苦笑)
なので今日も調べるだけにしておきましょう(笑)
今回槙谷美貴子がお話するのは、日本家屋の歴史についてです。よろしくお願いします!
今日の和風住宅の原型が成立したのは室町時代だと言われているみたいです。足利義満の邸宅はまだ寝殿造の面影を留めていたそうなんですが、いわゆる東山文化の時代(応仁の乱前後)の足利義政の邸宅になると、初期書院造と呼ばれるものになりました。畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られるようになったんですね。これは今の日本家屋に非常に近い形ですよね。
江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していきます。大まかに言えば、江戸時代中期までは関西の住宅の方が質が高く、構造や工法が次第に関東にも影響を与えていったのだそうです。近世初期の関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かったみたいですね。工法も古代・中世と余り変わらず、掘立柱を立て、茅葺で屋根や壁を葺くようなものであったのだとか。経済的に向上するに従って、住宅の質も次第に上がり、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝に使う部屋が造られていったみたいです。高い技能を持った職人が関与するようになり、工法も礎石の上に柱を据え、梁を複雑に組み合わせて造るように変わりました。ただし、土壁や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かったそうです。
江戸時代後期には掘立柱建物が次第に廃れていき、庶民の民家にも礎石建物が浸透していきます。江戸時代後期以降になると「田の字型」の間取りが広く普及していったそうなんですが、この間取りは結婚や葬儀など人が多く集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせて襖を開け閉めして用いたそうです。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものには、「田の字型」のタイプが多く見られますよね。
明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになります。西洋建築の技術にも刺激され、大工道具の質も上がり、職人の交流も活発になったことなどで、建築の質は全体に向上していったんですね。明治時代に洋風の住宅(西洋館)に住むのは、政治家、実業家などごく限られた階層の一部の者であり、ほとんどは和風住宅だったそうです。
大正時代以降はサラリーマン、都市知識人らが洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く造られるようになりました。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかったみたいです。
そして関東大震災後、同潤会アパートなどの近代的な集合住宅が現れ、庶民の住まいにも洋風建築が取り入れられ始めます。
今日では洋風の住まいが普及し、日本の生活習慣は欧米の影響を強く受けた形に変化しましたよね。欧米からの輸入住宅も少なくないのだそうです。かつては床の間のない家はほとんど考えられなかったそうなんdねすが、新築の家は和室はあっても床の間がない場合が多くなっています。
住居の歴史を見るのも、やはり楽しいですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
なので今日も調べるだけにしておきましょう(笑)
今回槙谷美貴子がお話するのは、日本家屋の歴史についてです。よろしくお願いします!
今日の和風住宅の原型が成立したのは室町時代だと言われているみたいです。足利義満の邸宅はまだ寝殿造の面影を留めていたそうなんですが、いわゆる東山文化の時代(応仁の乱前後)の足利義政の邸宅になると、初期書院造と呼ばれるものになりました。畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られるようになったんですね。これは今の日本家屋に非常に近い形ですよね。
江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していきます。大まかに言えば、江戸時代中期までは関西の住宅の方が質が高く、構造や工法が次第に関東にも影響を与えていったのだそうです。近世初期の関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かったみたいですね。工法も古代・中世と余り変わらず、掘立柱を立て、茅葺で屋根や壁を葺くようなものであったのだとか。経済的に向上するに従って、住宅の質も次第に上がり、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝に使う部屋が造られていったみたいです。高い技能を持った職人が関与するようになり、工法も礎石の上に柱を据え、梁を複雑に組み合わせて造るように変わりました。ただし、土壁や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かったそうです。
江戸時代後期には掘立柱建物が次第に廃れていき、庶民の民家にも礎石建物が浸透していきます。江戸時代後期以降になると「田の字型」の間取りが広く普及していったそうなんですが、この間取りは結婚や葬儀など人が多く集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせて襖を開け閉めして用いたそうです。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものには、「田の字型」のタイプが多く見られますよね。
明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになります。西洋建築の技術にも刺激され、大工道具の質も上がり、職人の交流も活発になったことなどで、建築の質は全体に向上していったんですね。明治時代に洋風の住宅(西洋館)に住むのは、政治家、実業家などごく限られた階層の一部の者であり、ほとんどは和風住宅だったそうです。
大正時代以降はサラリーマン、都市知識人らが洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く造られるようになりました。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかったみたいです。
そして関東大震災後、同潤会アパートなどの近代的な集合住宅が現れ、庶民の住まいにも洋風建築が取り入れられ始めます。
今日では洋風の住まいが普及し、日本の生活習慣は欧米の影響を強く受けた形に変化しましたよね。欧米からの輸入住宅も少なくないのだそうです。かつては床の間のない家はほとんど考えられなかったそうなんdねすが、新築の家は和室はあっても床の間がない場合が多くなっています。
住居の歴史を見るのも、やはり楽しいですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年6月23日木曜日
異人館についてと槙谷美貴子
こんにちは。槙谷美貴子です。
今日、槙谷美貴子は、異人館についてお話したいと思います。
異人館とは幕末・明治時代以降(主として明治時代)の日本において、主に欧米人が住宅として建設した西洋館ですね。
従来の日本家屋とは異なる西洋式の住宅に異邦人(異人)が住んだことによるのだそうです。日本人が住んでいた西洋館も(誤って)異人館と呼ばれることがあるのだとか。開国から明治前期まで、外国人の住まいは原則として居留地に限られていたようです。条約改正との関連で明治32年(1899年)以降、内地雑居が認められ、旧居留地以外の高台などにも建設されるようになったみたいですね。群として多く残っているのは神戸、長崎。横浜、函館では異人館という呼び方は一般的でないとされているみたいです。
日本の各地にある異人館についても調べてみました。
兵庫県神戸市の北野町山本通には外国人の住宅が多数残っていて、1977年放送のNHK連続テレビ小説『風見鶏』などで北野異人館街として広く知られるようになり、その一部が公開され観光名所にもなっていますね。1980年、北野町山本通は種別「港町」として最初に重要伝統的建造物群保存地区に選定されているみたいです。1995年に発生した阪神・淡路大震災により異人館の約3割が失われたが、40棟余りが現存し、保存措置が講じられているみたいですよ。
また、神戸市西部のJR塩屋駅の山手、ジェームス山と呼ばれるエリアにも異人館が約50棟現存しているのだとか。こちらは昭和初期にイギリス人貿易商アーネスト・ウィリアム・ジェームスにより外国人用住居・別荘として建てられたものが主とされています。現在も多くの外国人が居住しており、観光地化はされていないのだとか。
長崎県長崎市にもグラバー邸をはじめ著名な異人館が残っていますよね。特に東山手・南山手地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようです。このほか九州では鹿児島市などにも異人館は残っているのだとか。
神奈川県横浜市は関東大震災で大きな被害を受け、震災以前の建物はほとんど残っていないようです。現在観光コースになっている山手本通り沿いは数棟の西洋館があるそうなんですが、山下公園前の外国商館であった旧イギリス7番館(1922年)を除いて、関東大震災以降に建築されたものか、他所から移築されたものみたいですね。
北海道函館市では1907年(明治40年)の大火があり、大火後に建設された外国関係のものはイギリス・ロシアの領事館程度だそうです。
折角なので、これのどこかには行ってみたいですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今日、槙谷美貴子は、異人館についてお話したいと思います。
異人館とは幕末・明治時代以降(主として明治時代)の日本において、主に欧米人が住宅として建設した西洋館ですね。
従来の日本家屋とは異なる西洋式の住宅に異邦人(異人)が住んだことによるのだそうです。日本人が住んでいた西洋館も(誤って)異人館と呼ばれることがあるのだとか。開国から明治前期まで、外国人の住まいは原則として居留地に限られていたようです。条約改正との関連で明治32年(1899年)以降、内地雑居が認められ、旧居留地以外の高台などにも建設されるようになったみたいですね。群として多く残っているのは神戸、長崎。横浜、函館では異人館という呼び方は一般的でないとされているみたいです。
日本の各地にある異人館についても調べてみました。
兵庫県神戸市の北野町山本通には外国人の住宅が多数残っていて、1977年放送のNHK連続テレビ小説『風見鶏』などで北野異人館街として広く知られるようになり、その一部が公開され観光名所にもなっていますね。1980年、北野町山本通は種別「港町」として最初に重要伝統的建造物群保存地区に選定されているみたいです。1995年に発生した阪神・淡路大震災により異人館の約3割が失われたが、40棟余りが現存し、保存措置が講じられているみたいですよ。
また、神戸市西部のJR塩屋駅の山手、ジェームス山と呼ばれるエリアにも異人館が約50棟現存しているのだとか。こちらは昭和初期にイギリス人貿易商アーネスト・ウィリアム・ジェームスにより外国人用住居・別荘として建てられたものが主とされています。現在も多くの外国人が居住しており、観光地化はされていないのだとか。
長崎県長崎市にもグラバー邸をはじめ著名な異人館が残っていますよね。特に東山手・南山手地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようです。このほか九州では鹿児島市などにも異人館は残っているのだとか。
神奈川県横浜市は関東大震災で大きな被害を受け、震災以前の建物はほとんど残っていないようです。現在観光コースになっている山手本通り沿いは数棟の西洋館があるそうなんですが、山下公園前の外国商館であった旧イギリス7番館(1922年)を除いて、関東大震災以降に建築されたものか、他所から移築されたものみたいですね。
北海道函館市では1907年(明治40年)の大火があり、大火後に建設された外国関係のものはイギリス・ロシアの領事館程度だそうです。
折角なので、これのどこかには行ってみたいですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
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