2011年6月15日水曜日

中世イタリアと槙谷美貴子

こんにちは、槙谷美貴子です。今回、わたくし槙谷美貴子がお話するのは、イタリアの中世の歴史についてです。
5世紀以降、イタリア半島は東ローマ帝国やゲルマニア地方の諸民族、アラブ人などの外国勢力の侵略を受け、また外国の勢力に後押しを受けた小国、公国、王国が乱立し、相争う状態に陥ったことで政治的な統一性は失われていきました。ゲルマン人のランゴバルド族は、北部のランゴバルド王国のほか、スポレート公国、ベネヴェント公国を支配したが、前者の二つはフランク王国に併合。ベネヴェント公国はランゴバルド王国の滅亡後、ベネヴェント侯国と称し、サレルノ侯国やカープア侯国を成立させたんだそうです。南イタリアではビザンツ帝国からナポリ公国、アマルフィ公国、ガエータ公国などが独立しましたね。そのような状況下でカトリック教会は唯一安定した組織だと見なされ、大きな政治権力を握るようになります。ローマにいる教皇はイタリアの一部を直接統治していたみたいなんですが、その影響力はイタリア全域にとどまらずキリスト教化されたヨーロッパ中に及んでいたのだそうです。また9世紀以降、イタリアをみずからの領土だと主張する神聖ローマ帝国と教皇の対立により、イタリア半島はしばしば戦場となったとされています。
11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、特にヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェなどが海運や商業によって繁栄するようになり、名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展しました。12世紀には北イタリアの都市国家群がロンバルディア同盟を組織し、イタリアでの実権を「バルバロッサ」として知られる皇帝フリードリヒ1世から防衛しています。
一方、アラブ人や東ローマ帝国に支配されていたイタリア南部やシチリア島では、ローマ教皇の求めでロベルト・イル・グイスカルドをはじめとするノルマン人のヴァイキングが征服を行い、1130年にオートヴィル朝シチリア王国が成立しました。シチリア王家と神聖ローマ皇帝(ホーエンシュタウフェン家)の政略結婚により両家の血を引くフリードリヒ2世が成人すると、イタリア半島統一の意志をあらわにします。しかし、ロンバルディア同盟などの反抗によりフリードリヒは統一を果せず、子孫がその意志を継いだんですね。
皇帝によるイタリア統一を危惧したローマ教皇は、フランスの手を借りたとされています。フランスは王弟シャルル・ダンジューを送り込み、1266年にフリードリヒ2世の息子マンフレーディを倒し、シャルルはシチリア王カルロ1世として南イタリアを支配したんだそうです。
1282年、フランス支配に不満を持ったシチリア住民は、シチリアの晩祷と呼ばれる反乱を起こし、シャルルをナポリに追放、マンフレーディの娘婿にあたるアラゴン王ペドロ3世に庇護を求めました。このことによりシチリア王国は2つに分裂し、半島側はナポリ王国と呼ばれることとなったんですね。



それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

1 件のコメント:

  1. 匿名6/15/2011

    槙谷美貴子さん、こんにちは!イタリアの歴史興味深いです。私も歴史について興味を持ったので、またここに来させていただきますね(^^)

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