2011年6月24日金曜日

日本家屋の歴史と槙谷美貴子

こんにちはー。槙谷美貴子です。近頃暑いですね。歴史に関する建物に行きたいんですが、こう暑いと行く気が起きません(苦笑)
なので今日も調べるだけにしておきましょう(笑)

今回槙谷美貴子がお話するのは、日本家屋の歴史についてです。よろしくお願いします!
今日の和風住宅の原型が成立したのは室町時代だと言われているみたいです。足利義満の邸宅はまだ寝殿造の面影を留めていたそうなんですが、いわゆる東山文化の時代(応仁の乱前後)の足利義政の邸宅になると、初期書院造と呼ばれるものになりました。畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られるようになったんですね。これは今の日本家屋に非常に近い形ですよね。
江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していきます。大まかに言えば、江戸時代中期までは関西の住宅の方が質が高く、構造や工法が次第に関東にも影響を与えていったのだそうです。近世初期の関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かったみたいですね。工法も古代・中世と余り変わらず、掘立柱を立て、茅葺で屋根や壁を葺くようなものであったのだとか。経済的に向上するに従って、住宅の質も次第に上がり、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝に使う部屋が造られていったみたいです。高い技能を持った職人が関与するようになり、工法も礎石の上に柱を据え、梁を複雑に組み合わせて造るように変わりました。ただし、土壁や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かったそうです。
江戸時代後期には掘立柱建物が次第に廃れていき、庶民の民家にも礎石建物が浸透していきます。江戸時代後期以降になると「田の字型」の間取りが広く普及していったそうなんですが、この間取りは結婚や葬儀など人が多く集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせて襖を開け閉めして用いたそうです。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものには、「田の字型」のタイプが多く見られますよね。
明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになります。西洋建築の技術にも刺激され、大工道具の質も上がり、職人の交流も活発になったことなどで、建築の質は全体に向上していったんですね。明治時代に洋風の住宅(西洋館)に住むのは、政治家、実業家などごく限られた階層の一部の者であり、ほとんどは和風住宅だったそうです。
大正時代以降はサラリーマン、都市知識人らが洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く造られるようになりました。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかったみたいです。
そして関東大震災後、同潤会アパートなどの近代的な集合住宅が現れ、庶民の住まいにも洋風建築が取り入れられ始めます。
今日では洋風の住まいが普及し、日本の生活習慣は欧米の影響を強く受けた形に変化しましたよね。欧米からの輸入住宅も少なくないのだそうです。かつては床の間のない家はほとんど考えられなかったそうなんdねすが、新築の家は和室はあっても床の間がない場合が多くなっています。

住居の歴史を見るのも、やはり楽しいですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

1 件のコメント:

  1. はなこ6/24/2011

    日本家屋の歴史面白いです!もう、室町時代から私たちのよく知っている和風の家が出来ていたんですね。同じだと思っていたものも時代とともに移り変わっていて、面白いです。槙谷美貴子さんのお話、タメになるんで好きですよ´`*

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