2011年7月4日月曜日

槙谷美貴子と紅茶の歴史

こんにちは。槙谷美貴子です。
現在、世界の茶の生産の8割は紅茶です。
1985年の茶の収穫量は2,333(千トン)、そして緑茶の生産量は424(千トン)程度です。
日本では中国から伝わってきた緑茶が普及しており、紅茶の消費量は緑茶に遠く及びません。
そしてお茶のふるさと中国も緑茶の消費が中心です。
ところが、それ以外の地域、ヨーロッパやアメリカではお茶といえば紅茶特に、槙谷美貴子も好んで飲んでいる紅茶の輸入数量では圧倒的な国イギリスは紅茶の本場です。
いったい、どのようにしてイギリスで紅茶が隆盛を極めるようになったのでしょうか?

1700年に東インド会社が中国からイギリスに運んだ積荷のお茶の内訳は、たとえば、安徽省の下級緑茶300梱と福建省の下級烏龍茶80梱であったりします。 
1720年頃には、女王にあやかって、銀のポットや中国製の陶磁器ののポットを使って、茶を客の目の前で淹れることが上流階級でのステータスシンボルとなり、客人がお茶の席で女主人と会話を楽しむのが社交のエチケットであるとされるようになっていきます。
1720年頃には主として値段の安い粉緑茶が多く輸入され、イギリス人に飲まれており、茶の関税引き下げにより、中国からの輸入量は100万ポンドを超えるまでになりました。
その頃中国茶の輸入の独占権を得た、イギリスの東インド会社の中国茶輸入量は増え続け、1760年には東インド会社の輸入金額の40%を占めるようになります。
このときには、イギリスのお茶の消費量はすでに他のヨーロッパ諸国の全消費量の約3倍に達していました。
18世紀後半には、イギリスにもスタッフォードシャーを中心に窯業がおこり、イギリス独自の陶磁器が大量生産できるようになります。
一説には、1784年に余干臣が宦官をやめて商人になり福建省から安徽省にやってきて、福建省の発酵茶「工夫茶」にならって東至県に工場を設立し、工夫茶にならって茶の製造を始めた。次の年には、祁門県(祁の偏は[示]です)に二ヶ所の製茶工場を設立して「祁門紅茶」を造りこれを拡大していった、といいます。
また一説には、1786年に祁門の南の貴渓の胡元竜が日順茶工場を開設して、烏龍茶を改良して「祁門紅茶」を完成させたと伝えられています。

槙谷美貴子は紅茶は茶葉が船旅中に発酵してできた者と聞いていましたが間違いみたいですね。

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