2011年6月30日木曜日

槙谷美貴子と中英語

槙谷美貴子です、こんにちは!今日もまた、槙谷美貴子が英語史の続きをお話させていただきます。よろしく尾根阿木します。

ノルマン・コンクエストの結果、イギリスの支配階級はほとんどノルマン系フランス語しか話さない人々によって占められることになり、フランス語が大量に流入したそうです。その結果上流階級の話すフランス系語彙と、中下層階級のゲルマン系語彙の二系統が混在する現在の英語ができ上がったんですね。例えば、mutton(食用の羊肉) - sheep(家畜の羊)、beef(食用の牛肉)- cow(酪農用の牛)など。つまり貴族は食べ、庶民がその肉を養うということだそうです。
この時期にフランス語から英語に入った語には pavilion、tennis、umpire、nasty、bribe、gentle などがあるみたいですね。そのときまでに英語には十分な語彙が存在していたため、新しく入ってきたフランス語は従来の英語の意味を変えたり、変えられたりして定着し、結果として英語の表現力は大きく向上したそうです。例えば、判決を下すの英語は元来 doom だったんですが、それはフランス語由来の judge にとって代わられ、doom は「最後の審判」という特殊な意味へと変化していったんですね。
しかし、ノルマン人は少数だったため、13世紀になると英語がイギリスの国語としての地位を確立し始め、百年戦争の敗退などを受けて14世紀には貴族でさえ英語を母語とするに至ったそうです。ですがこの間にフランス語から借用された語彙は一万語におよび、その75%が現在まで残っているのだとか。
長らく英語では話し言葉と書き言葉(ラテン語)が分離していたが、ルネサンスの運動がようやくイギリスにも伝わると、両者を一致させる動きが現れ、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』などができ上がったみたいです。
古英語期にはアルフレッド大王の文教政策が功を奏し、ウェセックス方言によるテクストが多く残り、1つの「標準語」として認められていますが、中英語期には前述のような階級間でのかなり目立った言語格差が見られたり、フランス語からの影響を多大に受けていたことも手伝って、中英語は言語的にかなり過渡的で流動的なものだったといえるのだとか。したがって、古英語のように形態論、統語論を「中英語」という枠で一般的に記述することはきわめて難しいみたいですね。その場合には、チョーサーが用いた「東イングランド」方言に限定するなど、時代・地域の的を絞る必要があるそうです。それほど時代・方言によって違いの多い時期だったのだとか。

11世紀から15世紀にかけてのお話です。
少しずつ成長していっているみたいで、本当に調べるのが楽しいです(笑)この時代をもとにした映画なんか、見てみたくなりました(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月29日水曜日

英語史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日は、英語の歴史、英語史について、槙谷美貴子がお話させていただきます。よろしくお願いします。
現在直接辿れる英語の最古の祖先は印欧祖語とされています。印欧祖語はかつて黒海沿岸に居住していた民族が使用していた言語であると推定されていてmそこから幾つもの言語集団がインドからイラン、ヨーロッパにかけて移動し、ヒンディー語、ペルシャ語や、ヨーロッパの諸言語として分かれていったと考えられているのだとか。このうち黒海からヨーロッパ北部へ分かれた言語がゲルマン祖語と想定されています。これをルーツとする言語集団をゲルマン語派と言い、その中に現在の英語、ドイツ語、オランダ語、北欧諸言語が含まれていたのだとか。
そのゲルマン族のうち、ドイツ西北部に移住した部族にアングル人・サクソン人・ジュート人がおり、しばらくそこに住んでいたがやがて4世紀頃にフン族の圧迫で西部に押し出され、ブリテン島に渡っていきます。

ブリテン諸島 には古くからブリトン族などのケルト人が住んでいましたが、 紀元43年、第4代ローマ皇帝クラウディウスの征服により、現在のイングランドとウェールズに当たる地方がローマ帝国に組み込まれました(ブリタンニア属州)。しかし、帝国が衰退するにつれ、ローマ軍は大陸へ撤退せざるを得なくなり、その空白を縫ってゲルマン人の部族であるアングル人・サクソン人・ジュート人が5世紀頃ブリテン島に侵出し、ケルト系住民を西北に押しやって定住したのだとか。
彼らは七つの王国を樹立し(七王国時代)、あい争っていたが9世紀に統一され、この王朝のもとで古期英語が隆盛したそうです。アングル族(ドイツ北部アンゲルン半島出身)・サクソン族(ドイツ低地ザクセン州出身)の言語が英語のベースとなっているため、英語の最も基礎的な語彙、文法はゲルマン語に基づくみたいですね。例えば、folk、mind、ghost、shape、with などがそうみたいです。
また、大陸からキリスト教典などのラテン語文献も翻訳し、およそ450語のラテン語彙が流入し、ましたが、これらは主に宗教、学術用語であったそうです。これは現在もほぼ同じ形で使用されていますね。例えば、angel、candle、organ、Antichrist、prophet、disciple などだそうです。
8世紀頃からデーン人(バイキング)の侵略が激しくなり、王国は崩壊し、11世紀始めにはイングランドはデンマーク王クヌートの支配下に入ります。この長い混乱の過程で古ノルド語の語彙が英語に入ってきたのだそうです。古ノルド語も英語と同じくゲルマン語であるため、英語は古ノルド語から数千もの日常語彙を借用したのだとか。これはawkward、band、bank、weak、die、grasp などがそうみたいです。また、三人称複数を表す they、their、them も古ノルド語からの借用みたいですね。
古英語の時代は、古ノルド語などの影響もあったものの、外来語をそのまま借用することは後述する中英語や近代英語時代と比べて少なく、heofon-cyning(天の王→神)や mere-hengest(海の馬→船)という風に、単語と単語を合成させる複合語(ケニング kenning)を造り出していたそうです。しかし、これらのほとんどは中英語期以降にフランス語やラテン語からの借用語に取って代わられ、現代英語ではほとんどが廃語になっているのだとか。
王の死後、アングロ・サクソン人の支配は復活するが、その支配力は弱く、内乱が相次いだため、最終的には、フランス北部にいたノルマン人に占領されてしまいます。
まとめれば、5世紀から11世紀という中世前半に、アングロ・サクソン人のゲルマン語が母体となって、ラテン語・フランス語・古ノルド語の影響を受けて、英語ができ上がっていったんですね。English とは「アングル(Angle)族の言葉」、という意味なのだそうです。

英語史、まだまだあるんですが、今日はこの辺で。また機会がありましたら、ここでご紹介させていただきたいと思っています。よろしくお願いします。槙谷美貴子でした。

2011年6月28日火曜日

ポール・セザンヌについてと槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今回は、フランスの歴史的画家、ポール・セザンヌについてお話させていただこうかと思います。よろしくお願いします。
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日(10月23日説もあるそう))はフランスの画家です。当初はモネやルノワール等と共に印象派のグループの一員として活動していたそうなんですが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求したそう。
「多角的な視点の採用、対象の内面に迫る心情性に富んだ形体・色彩の表現、単純化された堅牢な造形性など印象主義的なアプローチとは異なる、独自性に溢れた革新的な表現方法によって絵画を制作」していることが特徴です。
セザンヌはモネら印象派の画家たちと同時代の人物ですが、ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及されますね。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えたとされています。
私もセザンヌの絵画はよく見るんですが、その当時にしては前衛的なタッチなんですよね。彼の登場によってぐんと絵画の幅が広がったのがよく分かります。絵の歴史も、楽しいものです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月27日月曜日

フランス人の歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日はフランス人の歴史を、槙谷美貴子がお話させていただきます。よろしくお願いします。
ローマ時代以前、ガリア全域(現在のフランス、ベルギーの全域とドイツ、スイス、北イタリアの一部を含む西ヨーロッパの領域)には、集合的にガリア人として知られるさまざまな部族が居住していました。彼らの祖先は紀元前7世紀ごろに中央ヨーロッパからきたケルト人で、彼らは土着の人々(主にリグリア人)を支配していたそうです。
ガリアは紀元前58年から51年ごろにユリウス・カエサル指揮下のローマ軍に征服され、ローマ帝国の版図に含まれることとなりました。続く5世紀を通じて、ガリアとローマの人々、そして文化が混淆し、ガロ・ローマ文化が形成されていったんですね。俗ラテン語の諸方言が地域の支配言語となり、土着のケルト語は、ほとんどの場合、方言の中に痕跡を留めるだけになっていきます。今日、フランスにおけるケルト文化・ケルト言語の唯一残存する地域は北西のブルターニュのみですが、これもガリア語が生き残ったわけではなく、中世にコーンウォールからケルト人が移り住んだためとされています。

西ヨーロッパにおけるローマ帝国支配の衰退によって、3番目の集団がこの地域に流入してきました。すなわちフランク人であり、「フランス」という言葉の語源は彼らに由来するのだそうです。フランク人は、3世紀ごろから、現在のドイツにあたる地域から、徐々にライン川をわたりはじめていたゲルマン系部族だそうです。6世紀初めには、フランク人は、メロヴィング朝の王クロヴィス1世とその息子に率いられ、現在のフランスほぼ全ての地域に支配権を確立し、その国に彼らの名前を与えたんですね。フランスに到来したその他の主なゲルマン系部族は、ノルマン人(現デンマーク及びノルウェーに居住したヴァイキング族)であり、彼らは9世紀に、今日のノルマンディーにあたる北の地域を占領しました。ヴァイキングは次第に土着の人々と婚姻をし、キリスト教を受容していったそうです。そしてノルマン人は、2世紀後にイングランドを征服するんですね。ですが、中世、独立したノルマン公国は次第にフランス王国に再度取り込まれていきました。なお、フランク人から21世紀のフランス人へは直接の血統のつながりを見出すことはほとんど不可能だとされています。

フランス人についての歴史、やっぱり面白いですね。フランスには興味深い建築物もあるので、それについてもまた機会があれば書いていきたいです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月24日金曜日

日本家屋の歴史と槙谷美貴子

こんにちはー。槙谷美貴子です。近頃暑いですね。歴史に関する建物に行きたいんですが、こう暑いと行く気が起きません(苦笑)
なので今日も調べるだけにしておきましょう(笑)

今回槙谷美貴子がお話するのは、日本家屋の歴史についてです。よろしくお願いします!
今日の和風住宅の原型が成立したのは室町時代だと言われているみたいです。足利義満の邸宅はまだ寝殿造の面影を留めていたそうなんですが、いわゆる東山文化の時代(応仁の乱前後)の足利義政の邸宅になると、初期書院造と呼ばれるものになりました。畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られるようになったんですね。これは今の日本家屋に非常に近い形ですよね。
江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していきます。大まかに言えば、江戸時代中期までは関西の住宅の方が質が高く、構造や工法が次第に関東にも影響を与えていったのだそうです。近世初期の関東で一般的な農民の住まいは、土間に囲炉裏を作り、床にむしろなどを敷くようなものも多かったみたいですね。工法も古代・中世と余り変わらず、掘立柱を立て、茅葺で屋根や壁を葺くようなものであったのだとか。経済的に向上するに従って、住宅の質も次第に上がり、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝に使う部屋が造られていったみたいです。高い技能を持った職人が関与するようになり、工法も礎石の上に柱を据え、梁を複雑に組み合わせて造るように変わりました。ただし、土壁や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かったそうです。
江戸時代後期には掘立柱建物が次第に廃れていき、庶民の民家にも礎石建物が浸透していきます。江戸時代後期以降になると「田の字型」の間取りが広く普及していったそうなんですが、この間取りは結婚や葬儀など人が多く集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせて襖を開け閉めして用いたそうです。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものには、「田の字型」のタイプが多く見られますよね。
明治時代になると建築に関する封建的な規制もなくなり、資力に応じて住宅を造るようになります。西洋建築の技術にも刺激され、大工道具の質も上がり、職人の交流も活発になったことなどで、建築の質は全体に向上していったんですね。明治時代に洋風の住宅(西洋館)に住むのは、政治家、実業家などごく限られた階層の一部の者であり、ほとんどは和風住宅だったそうです。
大正時代以降はサラリーマン、都市知識人らが洋風の生活に憧れ、一部洋風を採り入れた和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く造られるようになりました。しかし、家の中では靴を脱ぎ、畳でくつろぐといった生活スタイル自体はほとんど変わらなかったみたいです。
そして関東大震災後、同潤会アパートなどの近代的な集合住宅が現れ、庶民の住まいにも洋風建築が取り入れられ始めます。
今日では洋風の住まいが普及し、日本の生活習慣は欧米の影響を強く受けた形に変化しましたよね。欧米からの輸入住宅も少なくないのだそうです。かつては床の間のない家はほとんど考えられなかったそうなんdねすが、新築の家は和室はあっても床の間がない場合が多くなっています。

住居の歴史を見るのも、やはり楽しいですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月23日木曜日

異人館についてと槙谷美貴子

こんにちは。槙谷美貴子です。
今日、槙谷美貴子は、異人館についてお話したいと思います。
異人館とは幕末・明治時代以降(主として明治時代)の日本において、主に欧米人が住宅として建設した西洋館ですね。
従来の日本家屋とは異なる西洋式の住宅に異邦人(異人)が住んだことによるのだそうです。日本人が住んでいた西洋館も(誤って)異人館と呼ばれることがあるのだとか。開国から明治前期まで、外国人の住まいは原則として居留地に限られていたようです。条約改正との関連で明治32年(1899年)以降、内地雑居が認められ、旧居留地以外の高台などにも建設されるようになったみたいですね。群として多く残っているのは神戸、長崎。横浜、函館では異人館という呼び方は一般的でないとされているみたいです。

日本の各地にある異人館についても調べてみました。
兵庫県神戸市の北野町山本通には外国人の住宅が多数残っていて、1977年放送のNHK連続テレビ小説『風見鶏』などで北野異人館街として広く知られるようになり、その一部が公開され観光名所にもなっていますね。1980年、北野町山本通は種別「港町」として最初に重要伝統的建造物群保存地区に選定されているみたいです。1995年に発生した阪神・淡路大震災により異人館の約3割が失われたが、40棟余りが現存し、保存措置が講じられているみたいですよ。
また、神戸市西部のJR塩屋駅の山手、ジェームス山と呼ばれるエリアにも異人館が約50棟現存しているのだとか。こちらは昭和初期にイギリス人貿易商アーネスト・ウィリアム・ジェームスにより外国人用住居・別荘として建てられたものが主とされています。現在も多くの外国人が居住しており、観光地化はされていないのだとか。
長崎県長崎市にもグラバー邸をはじめ著名な異人館が残っていますよね。特に東山手・南山手地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようです。このほか九州では鹿児島市などにも異人館は残っているのだとか。
神奈川県横浜市は関東大震災で大きな被害を受け、震災以前の建物はほとんど残っていないようです。現在観光コースになっている山手本通り沿いは数棟の西洋館があるそうなんですが、山下公園前の外国商館であった旧イギリス7番館(1922年)を除いて、関東大震災以降に建築されたものか、他所から移築されたものみたいですね。
北海道函館市では1907年(明治40年)の大火があり、大火後に建設された外国関係のものはイギリス・ロシアの領事館程度だそうです。

折角なので、これのどこかには行ってみたいですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月22日水曜日

槙谷美貴子と擬洋風建築

こんにちはー。槙谷美貴子です。
今日も歴史について、色々と調べてみました!なので、今回槙谷美貴子は、擬洋風建築について、お話させていただきますね。
擬洋風建築とは、明治時代初期に西洋の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたものです。
伝統的な技法をベースにしながら、西欧に由来するデザインを消化・吸収した独自の造形であり、日本の近代化をよく物語る存在と言えます。重要文化財または地方自治体の有形文化財に指定、あるいは登録有形文化財に登録されているものも多いのだそうです。

幕末の開港以降、外国人居留地には彼等が本国の建築様式を持ち込んだ建造物が続々と建てられました。やがて居留地の建築に刺激を受けた大工の棟梁が、見よう見まねで洋風デザインの要素を取り入れた建物を建てるようになったんですね。これが擬洋風建築で、文明開化の象徴ともされているようです。
初期の代表的なものとして、二代目清水喜助(清水建設の実質的創始者)による築地ホテル館(現存しない)がありますね。これは幕府の要請を受けて築地居留地の外国人旅館として建設が始まり、明治維新後に完成したそうです。築地ホテル館や維新後間もなく建てられた第一国立銀行(明治6年)は当時の錦絵にも多く描かれ、評判を呼んだみたいですね。
地方においても、「第2の文明開化」というべき時流・風潮があり、県令(現在の都道府県知事に警察・検察・教育長等の権限を統合したような治権首長)の希望・命令、あるいは篤志家の出資などに基づき、役所、学校、病院などに洋風デザインが採用されることがあったそうです。これらの擬洋風建築は近代化の象徴として、地元民の誇りともなり、本来の役割を終えた後も、民俗資料館等として保存・活用されていることがあるのだとか。

また、現存する擬洋風建築の中でも有名なものには旧開智学校(長野県松本市)があるようです。私は実物を見たことはないんですが、左右対称の外観で中央に塔屋を造り、正面入口の上には、竜や天使の彫刻が舞っているという、和洋折衷の何とも不思議なデザインなのだとか。これを建てた地元の棟梁・立石清重は、東京や横浜に出かけて洋風建築を見て学び、自分なりに消化して奔放な造形を行ったそうですね。

擬洋風建築、是非間近で見てみたいものです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月21日火曜日

江戸時代についてと槙谷美貴子

こんにちは!槙谷美貴子です。
今日、槙谷美貴子は、江戸時代についてお話させていただきますね。
江戸時代は日本の歴史において、徳川将軍家によって日本が統治されていた時代です。徳川時代とも言いますね。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府あるいは徳川幕府と呼びます。
具体的には、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)に江戸城が明治政府軍の手に落ちるまでの、265年間を江戸時代と呼びますね。
始期については、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した1600年10月21日(慶長5年9月15日)を始まりとする見方もあるそうです。また、終期については、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年11月9日(慶応3年10月14日)とする見方や、王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した1868年1月3日(慶応3年12月9日)とする見方も存在するのだとか。

藩政時代(はんせいじだい)という別称もありますが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多いそうです。
江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な学問が開花しました。また経済の発展による庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなったのだとか。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的、連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられるそうです。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ近代に近い時期として、江戸時代は歴史の上で近世と定義されているみたいですね。

江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになります。基本的には藩士の子弟に朱子学や剣術を奨励・徹底するものですが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあったのだとか。庶民レベルでは、僧侶ら知識階級が庶民らの子供を集めて基本的な読み書きを教えたそうです。この寺子屋が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となったみたいですね。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎が古義堂を開くなど、私塾を構えるところもあったみたいなんですが、江戸中期くらいから郷村で村塾といわれる私塾が出てきたそうです。

江戸時代、長く続いただけあって調べることが多く楽しいです(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月17日金曜日

ピサの斜塔の歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日も、「槙谷美貴子の歴史好きブログ」はじめていきたいと思います。
今回お話するのはピサの斜塔の歴史について。
ピサの斜塔は、イタリアのピサ市にあるピサ大聖堂の鐘楼で、世界遺産「ピサのドゥオモ広場」を構成する観光スポットです。高さは地上55m、階段297段、重量は14,453t、地盤にかかる平均応力は50.7tf/m2と見積もられているそうです。一時傾斜の増大と倒壊の危惧があったんですがその後の処置により、当分問題ないと判断されているようですね。現在の傾斜角は約5.5度で、傾斜の進行は止まっているみたいです。

傾斜の原因:1990年から改修工事前に行われた地質調査によれば、地盤の土質が極めて不均質であったことだそうです。南側の土質が相対的にやわらかく年月を経るうちに傾き始め、それにより回転モーメントが増大してますます地盤に対する負担が大きくなり、結果的には塔の南側が大きく沈下するという事態に陥った、というわけなんですね。どうしても傾斜が修正できなかったため、最上階層のみ鉛直に建てられているそうですよ。また、オリジナルの建築計画上では現在あるものよりも遥かに高い鐘楼ができる予定だったそうです。

ピサの斜塔、私は見に行ったことがないんですが、こんな歴史が隠されていたんですね。そういえば、ピサの斜塔は写真に撮るのがひどく難しいらしいです。一度行って、試してみたいですね(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月16日木曜日

二条城と槙谷美貴子

こんにちは。槙谷美貴子です。
今回槙谷美貴子がお送りする歴史に関するお話は、お城!
京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城、二条城についてです。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもありますね。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがありますが、現在見られるものは、徳川氏によるものとなっております。
城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されています。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されているんですよね。

外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつ。正門は堀川通に面した東大手門ですね。南門は1915年(大正4年)に新たに造られたもので、この南門と西門は外堀を渡る橋が撤去されており使用されていないのだとか。また、北大手門も普段は閉鎖されているみたいですね。この他に、城内には5つの城門があります。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門ですね。
二の丸の中心的建造物である二の丸御殿は、東大手門から見て正面の右斜め前方向に建ちます。御殿は築地塀で囲まれていて、唐門は塀の南側。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)が見えるのだとか。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」(しきだい)、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」(くろしょいん)、「白書院」(しろしょいん)と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっているようです。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園があるみたいですよ。遠侍の北側、白書院の東側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物があるのだとか。
本丸の御殿は御所の北にあった旧桂宮邸を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、過去には春と秋に期間限定で公開されていましたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年)春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていません。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や池も現存しているようです。

内部、見たかったのに残念ですね。
また公開されることがあったら、絶対突撃していきたいと思います(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月15日水曜日

中世イタリアと槙谷美貴子

こんにちは、槙谷美貴子です。今回、わたくし槙谷美貴子がお話するのは、イタリアの中世の歴史についてです。
5世紀以降、イタリア半島は東ローマ帝国やゲルマニア地方の諸民族、アラブ人などの外国勢力の侵略を受け、また外国の勢力に後押しを受けた小国、公国、王国が乱立し、相争う状態に陥ったことで政治的な統一性は失われていきました。ゲルマン人のランゴバルド族は、北部のランゴバルド王国のほか、スポレート公国、ベネヴェント公国を支配したが、前者の二つはフランク王国に併合。ベネヴェント公国はランゴバルド王国の滅亡後、ベネヴェント侯国と称し、サレルノ侯国やカープア侯国を成立させたんだそうです。南イタリアではビザンツ帝国からナポリ公国、アマルフィ公国、ガエータ公国などが独立しましたね。そのような状況下でカトリック教会は唯一安定した組織だと見なされ、大きな政治権力を握るようになります。ローマにいる教皇はイタリアの一部を直接統治していたみたいなんですが、その影響力はイタリア全域にとどまらずキリスト教化されたヨーロッパ中に及んでいたのだそうです。また9世紀以降、イタリアをみずからの領土だと主張する神聖ローマ帝国と教皇の対立により、イタリア半島はしばしば戦場となったとされています。
11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、特にヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェなどが海運や商業によって繁栄するようになり、名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展しました。12世紀には北イタリアの都市国家群がロンバルディア同盟を組織し、イタリアでの実権を「バルバロッサ」として知られる皇帝フリードリヒ1世から防衛しています。
一方、アラブ人や東ローマ帝国に支配されていたイタリア南部やシチリア島では、ローマ教皇の求めでロベルト・イル・グイスカルドをはじめとするノルマン人のヴァイキングが征服を行い、1130年にオートヴィル朝シチリア王国が成立しました。シチリア王家と神聖ローマ皇帝(ホーエンシュタウフェン家)の政略結婚により両家の血を引くフリードリヒ2世が成人すると、イタリア半島統一の意志をあらわにします。しかし、ロンバルディア同盟などの反抗によりフリードリヒは統一を果せず、子孫がその意志を継いだんですね。
皇帝によるイタリア統一を危惧したローマ教皇は、フランスの手を借りたとされています。フランスは王弟シャルル・ダンジューを送り込み、1266年にフリードリヒ2世の息子マンフレーディを倒し、シャルルはシチリア王カルロ1世として南イタリアを支配したんだそうです。
1282年、フランス支配に不満を持ったシチリア住民は、シチリアの晩祷と呼ばれる反乱を起こし、シャルルをナポリに追放、マンフレーディの娘婿にあたるアラゴン王ペドロ3世に庇護を求めました。このことによりシチリア王国は2つに分裂し、半島側はナポリ王国と呼ばれることとなったんですね。



それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年6月13日月曜日

槙谷美貴子と平安時代

槙谷美貴子です。

今日は平安時代について語りたいと思います。
■平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が鎌倉幕府が成立するまで政治上唯一の中心であったことから、平安時代と称する。

■文化・宗教史
平安初期の中央文化は、唐の影響を強く受けていた。桓武天皇は中国皇帝にならい郊天祭祀を行うなど、中国への志向が強かったと考えられている。桓武期には従来の日本に見られない中国仏教(天台宗、密教)が最澄、空海によって伝来され、以降の日本仏教の方向性を大きく規定づけることとなった(平安仏教)。こうした仏教の影響を日本古来の信仰も受けて、本地垂迹説があらわれて神仏習合が進んでいった。嵯峨天皇から清和天皇にかけての時期は、凌雲集などの漢文詩集が編纂されたり、唐風の書がはやるなど、唐風文化が花開いた。この唐風が非常に強い文化を弘仁・貞観文化という。

文化の国風化(日本化)の萌芽は、奈良時代から見られていたが、平安初期は唐風文化の影に隠れるかのようになっていた。しかし、唐風化の波が沈静化すると、ふたたび日本的な要素が文化の前面へと現れてきた。これが、平安中期ごろの国風文化である。特徴としては、平仮名・片仮名の発明で日本語の表記が容易になったことによる、源氏物語や枕草子に代表される和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造等の和様建築の登場などがある。また、平安中期は、仏教の末法思想が人々に広く浸透し、浄土思想・浄土教が盛んとなった。民衆に仏教信仰が拡がったのもこの時期であり、空也や融通念仏の良忍などの僧が民衆の中で活躍した。

平安末期になると歴史物語・軍記物語などの時代を顧みる文学が芽生えた。天台仏教・山岳仏教が日本各地へ広がり、豊後国東半島(富貴寺大堂など)や北陸(平泉寺など)などで動きが顕著であり、その他の地域でも山陰の三仏寺投入堂などがある。当時、民衆の間に今様という歌謡が流行し、後白河上皇により今様を集成した『梁塵秘抄』が編まれた。覚猷(鳥羽僧正)筆と伝えられ、人々の様子を愛嬌のある、活き活きとした姿で描いた鳥獣人物戯画もこの時代の作品である


最近、歴史人物ブームが来ていると思うのは槙谷美貴子だけでしょうか?
芸能人の方もよくテレビで戦国武将が好きだったりする人が多いんですよね。
なんか槙谷美貴子としては遠い存在の人が歴史人物が好きだと言うと親近感持ってしまいます(笑)
後々歴史人物も紹介していきたいと思います。

槙谷美貴子


2011年6月10日金曜日

弥生式時代の生活と槙谷美貴子

こんにちは、槙谷美貴子です。
今日は織物について喋っていこうと思います。
なぜ、織物かというと縄文時代の次の弥生式時代から織物が始まったと聞いたからです。
日本の織機の歴史は、弥生式時代(西暦1~2世紀頃)に始まると言われ、我が国最古の織機の木片が、静岡県の登呂遺跡から出土しています。
居座機(いざりはた)と呼ばれ、手織機の初期のものだそうです。

次に、弥生土器なのですが、特徴はイチジクの実の形に似ていて、胴の下半分が外側に張り出しています。
壺の肩の辺りを太い縄目と細い縄目で装飾していて、縄文の上に小さな円形が三つを一組として頸部をめぐっている物もあるそうですが、弥生時代後期のものと考えられています。
他にも、粘土を輪積みにして整形し、外面を丁寧に磨き上げ、焼成の具合で赤みがかった部分もあります。
使われ方等の説明は色々ありますので、また後ほど槙谷美貴子が話していきたいと思います。
次回もよろしくおねがいします。

2011年6月9日木曜日

槙谷美貴子と縄文時代

槙谷美貴子です
こんにちは

今回は少し飛んで縄文時代のお話を槙谷美紀子がお話します。
縄文時代は約1万3千年前から2500年前となっております。
床を掘り下げ、まわりを草で囲んだ家に住み、シカやイノシシなどの獣(けもの)や魚・貝、木の実などをとって暮らして、縄文時代では弓矢と土器が生活を特によくしました。
縄文土器はまだ焼き物を作るための釜のようなものがなかったため、木を大量に使って焼いたようです。
この時代は、煮て食べれるようになったものが出てきた分、沢山の栄養が取れるようになりました。

この縄文土器は、ほとんどの土器の表面に縄を押し付けた後があることから名前が付けられたそうです。
縄には色んな節があるそうですが、縄紋土器の縄の模様で一般的に知られているのが単純に縄を撚っただけの「単節縄文」と言います。
「複節」、「複々節」さらに、縄の真ん中を縛り、転がすと羽のような模様になる「羽状縄文」。また、棒状のものに巻きつけて転がして模様をつけたものがあるそうです。
縄にも右巻きと左巻きがあるそうなので、博物館などにいって縄文土器を観察して当時の人が右利きか左利きかを考えてみるのも楽しいかもしれませんね。

2011年6月7日火曜日

槙谷美貴子と石器等の道具

こんにちは。今日も槙谷美貴子が歴史の話をしますのでよろしくお願いします
今日の槙谷美貴子の話は石器を中心に行こうと思います。

猿人からはじまった人ですが、ホモサピエンスになるまで何もしなかったわけではありません。
その過程での一番の始まりの道具は、骨や木の棒から道具を使うことから始まっています。
しかし、骨や木の棒等のものは遺物として残りにくいし、出土しても道具なのか区別がつきにくいので、いつ頃から、どのように使っていたのかよくわかりません。
はっきり道具とわかるものとしては石器があり、今のところ250万年前のものが最古とされています。
その石器も打ち砕いたもので、まだ言語能力もない状態だったためなのか、極めて限定されているのかはわかりませんが、10万年前頃まで、つまり200万年以上も、石器の形態に大きな進歩がみられない状態の石器だったのです。
道具・言語とならんで人類の特徴とされる火の使用についても、状況は似たようなものでアフリカ大地溝帯で発見された140万年前の火の使用跡が最古とされているが、火のおこし方は知らなかったようで、野火や落雷などから偶然にえた火を絶やさないよう努力していたと考えられるそうです。
新人があらわれて10~20万年たち、今から5万年ほど前になると、人類は道具の製造や形態が格段によくなっていきます。
そして、この頃には言語は十分発達していたと考えられ、集団行動や役割分担も巧みになり、火おこしや調理・野獣よけ・狩りが出来るようになります。
この時代は最終氷期といって、平均気温は現在より4~5℃も低かったそうで、ユーラシア大陸の北辺は氷河に覆われており、現在のフランスにツンドラが広がっていたともいわれます。
しかし人は毛皮を縫い合わせた服や炉を備えた住居を作り果敢にマンモスやトナカイを追いかけていたと聞きます。
そしてどんどん人の住処が拡大して行き、充実していく事になるわけですね。

2011年6月6日月曜日

槙谷美貴子と人への進化

こんにちは、槙谷美貴子です。
今日は人への進化ということをメインにお話していこうと思います。

ヒト(人類)の祖先が、チンパンジー・ボノボの祖先と別れたのは600万年前~700万年前くらいで、脳が発達して道具を使うことができる(チンパンジーやオランウータンも道具を使う)、複雑な言語体系がある、火を使用するなどのほか、他の類人猿にはみられない大きな特徴は、直立二本足歩行をすることです。そのほかであげると、犬歯が発達していないという特徴もあるそうです。


人とは、元々人であったわけではなく、大きな流れで言うと猿人から始まります。
猿人(アウストラロピテクス)→原人(ホモ・エレクトス)→旧人(ホモ・ネアンデルターレンシスなど)→新人(ホモ・サピエンス)です。
しかし、化石人類にはほとんど現生人類にはつながらない子孫を残さず絶滅した種のようです。
そして、不思議なことにこういった様々な人類はアフリカで起源を持って、世界に散らばって行ったそうです。
地球もまだ、大陸がばらばらにならずにつながっていたわけですから、移動はできるのですが、なぜアフリカがジャワ原人、北京原人等の起源なのかは解りません。
なんだか不思議ですね。

槙谷美貴子としては、こういった歴史にも興味があるので次もこのような起源の話が少し続くと思いますが、よろしくお願いします。

2011年6月3日金曜日

歴史好きの槙谷美貴子について

始めまして、槙谷美貴子と申します。
ここでは槙谷美貴子が気になる歴史の話を主に語っていこうと思います。

歴史好きになったきっかけは、子供の頃に図書室などで読んだ本や社会の授業から始まりました。
歴史には色んな歴史があり、私達が今までの文化に至る過程を知れるので興味深いもので、それを知っていくたびに今までの私達の生活を支えているものの興味深さを知れるという機会に出会いました。

今も昔も、戦国時代や三国時代のような戦歴が沢山あった時代が人気のようですね。
特に歴史に興味がある方々が最近増えているというのも聞くのですが、それだけ歴史に興味をもたれるかたがふえるというのは嬉しいことです。

歴史については、生活の道具等もそうですが、ここまで至った歴史の様々な出来事をこのブログではお話していきたいと思いますので、よろしくお願いします。