2012年12月11日火曜日

槙谷美貴子とクリスマスツリーの歴史

こんにちは、槙谷美貴子です。

「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」更新させていただきます!

12月ですね!
とうとうクリスマスを再来週に控えました!
クリスマスプレゼントや、クリスマスのご馳走の準備はいかがですか?
そろそろ準備しないとですね♪

今回はそんなクリスマスに欠かせない・・・
クリスマスツリーの歴史について槙谷美貴子がご紹介させていただきます!


クリスマスツリーの原型は、北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭で使われていたモミの木である。冬でも葉を枯らさずにいるモミは生命の象徴とされていた。

こうした「祭りごとを行う際にモミの木を飾る」という行為はドイツにも伝わり、キリスト教の普及と共にキリスト教との混淆が起こった。そして、1419年にドイツのフライブルクで、パン職人の信心会が聖霊救貧院にツリーを飾った。この記録が、クリスマスツリーをクリスマスに飾る行為の最初とされている。1600年代には、ドイツ各地で記録が残されている。ベルリンには1800年頃にツリーが伝わっている。

イギリスへは、ヴィクトリア女王を通じて伝わった。夫のアルバートがドイツ出身であったため、彼のためにクリスマス・ツリーに飾って見せたところから。

アメリカ合衆国で最初のツリーは、ドイツ移民によって1746年に飾られた。アメリカで導入された当時は、アメリカ建国当初からいたイギリス系清教徒のアメリカ人から、「クリスマスツリーは異教の文化だ」と断じられて、反発されたこともあった。

現在では、キリスト教徒が少ない日本のような国でも、この風習は根付いている。ロシアのヨールカは、日本の門松と同じく新年を祝うものだが、クリスマスの時期から飾られ、クリスマスツリーと何ら変わるところはないのだそうです]。


クリスマスツリーの歴史ってさかのぼるとそんなに古いのですね!
また、それを証明する当時の資料などが残っている事にも大変驚きです。





2012年11月8日木曜日

槙谷美貴子とフランスパンの歴史

こんにちは、槙谷美貴子です。

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フランスパン、とっても美味しいですよね。
トースターで焼いてバターやジャムを塗って食べてもいいし。
サンドイッチにしてもオシャレ☆!

食べ応えもあって槙谷美貴子も大好きなパンの1つです^^
今回はフランスパンの歴史をご紹介してみようと思います。


元来フランスでは土壌や気候の関係から、生産される小麦はグルテンの乏しいものが主であり、他国のパンのようにふっくらとしたものを作るのが難しかったのだそうです。そのためフランスでは粘り気の少ない生地を使ってのパン作りが求められ、結果として硬い外皮とサクサクした中身を持つ独特のパンが生まれたという経緯があるのだそうです。

元々フランスパンはイースト菌のようなパン酵母を使わず、生地を一度に混ぜて直火焼きしたものであったため、焼き色は現在のようなキツネ色ではなくうす焦げたものだったのだそうです。

フランスパンが現在のような形になったのは19世紀頃。
酵母菌や製粉技術などの向上によりこの頃から今日みられる多彩なフランスパンが作られるようになったのだそうですよ^^


食べ過ぎると上あごの皮がはがれてしまう?のでちょっと痛いですが><
食べすぎは注意?ですね^^w








2012年10月11日木曜日

カメラの歴史

こんにちは、槙谷美貴子です。

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今回はカメラの歴史についてご紹介させていただこうと思います。


まず、カメラの原理は、写真術の発明以前から知られていたそうで。
窓のない暗黒の壁面に小さな穴を空けると、反対側の壁面に外の景色が移し出される。
これを応用して、日食の観察を行ったり、絵画の下絵を描く目的に使われた道具が、“カメラ・オブスキュラ”です。16世紀には、小穴の代わりにレンズを用いて、より鮮明な像が得られるようになり、反射鏡によって箱の上面に像を結ばせるようにした小型の“カメラ・オブスキュラ”が作られたそうです。これは絵画における遠近画法の確立に寄与したと言われています。

1824年にはニセフォール・ニエプスが世界初の写真である「ヘリオグラフィ」を発明し、携帯型カメラ・オブスキュラの画像が定着できるようになりました。1839年にはルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが初の実用的写真術「ダゲレオタイプ」を発表。その後のカメラは、写真とともに現在に至るまで発展していきました。


現在ですと、超小型のカメラや毛穴まで見れる様な高い画素数を誇るカメラなど、色々なカメラがありますよね。携帯電話にもカメラ機能がついてて当たり前の時代にもなりましたし。

老若男女写真を趣味にされている方も多いですね^^
槙谷美貴子も写真は撮るのも見るのも大好きです!

以上、カメラの歴史でした!


2012年9月6日木曜日

チョコレイの話。


今日は槙谷美貴子もすきなチョコレートの歴史を調べてみましょう。
チョコレートは発酵、焙煎、粉砕を経たカカオの実から作られています。
アメリカ先住民族はカカオの粉末を磨り潰したものを入れた液体にバニラや唐辛子を混ぜて飲んでいたそうです。
槙谷美貴子は唐辛子に驚きました…
ヨーロッパの人々はここから唐辛子を外し、砂糖や牛乳を入れて甘味を加えた。その後現在の棒状のチョコレートを作る方法を編み出しました。
こっちのほうが槙谷美貴子はすきですね。
チョコレートを使用した菓子は多数あり、世界で最も人気で万人に知られた味の1つとなっています。
一方で原料のカカオの生産については、奴隷労働や児童労働が歴史的に繰り返されており、今なお深刻な問題となっているそうです。

2012年8月23日木曜日

シャープペンシルの歴史

こんにちは、槙谷美貴子です。
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今回は学生時代に大変お世話になりましたね
シャープペンシルの歴史について槙谷美貴子がご紹介させていただきます。


◆シャープペンシルの歴史
1915年、早川金属工業(現在のシャープ)の創業者である早川徳次は、本業の傍ら金属製繰出鉛筆を発明、「早川式繰出鉛筆」として特許を取得した。これ以前の繰出鉛筆はセルロイド製であり、非常に壊れやすく実用的ではなかったが、この発明により実用に耐えるものになった。初期のものは芯が太かったが、翌年1916年に芯をさらに細いものに改良し、「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」と改名した。この当時はノック式のものはまだ発明されておらず、本体の末端にあるパーツを回転させることで芯を送り出すものだった。なお、この製品は天理市のシャープ総合開発センター歴史ホールに保管されていて、プラチナ萬年筆によって限定復刻された。シャープの社名は金属製繰出鉛筆の発明が由来であり、その製品名から社名が付けられた。なお、シャープは1923年の関東大震災で工場を焼失し、家電メーカーとして再生したため現在は筆記用具を製造販売していない。特許も震災による借金返済のために売却された。 なお、シャープペンシルという呼称は、福井商店の福井庄次郎氏が輸入時に名付けたもので、早川徳次とは知り合いであった事から自分の会社の商品にも付けた事に由来する。


意外と知らない人も多いのではないでしょうか?
シャープの製品のCMなどでシャーペンを握った手のイラストが出ていたりしますが、この歴史に関係していたのです^^


2012年8月7日火曜日

切手の歴史


槙谷美貴子の歴史好きのブログ

こんにちは、槙谷美貴子です。
今回は槙谷美貴子が切手を紹介します。

郵便料金前納のアイデアは19世紀初頭から各国で提案されていて、1819年にはサルデーニャ(現在のイタリア北部)で実施をみていたが、現在と同じく、郵便切手を利用した制度が開始されたのは、1840年のイギリスだそうです。
この時開始された近代的郵便制度(料金の前納・重量制の導入・全国均一料金制など)によって導入された制度の一つとして、初めて郵便切手が発行されたみたいですね。
ローランド・ヒルはイギリスのおける近代郵便制度の考案者ですが、彼は切手の考案者ではありません。
イギリス国内ではジェームズ・チャルマーズがその提案者で、オーストリア(現在のスロベニア)のコシールも、同様の案を1836年に提案しているそうです。
日本で最初に発行された切手は、1871年(明治4年)4月20日に発行された竜文切手で、48文、100文、200文、500文の計4種だったみたいです。
この当時はまだ通貨改革が行われていなかったため、江戸時代の通貨による額面表示がなされていたそうです。
翌年の1872年(明治5年)には「銭」の単位に変更された竜銭切手が発行(ちなみに同切手は日本初の目打付切手である)された。なお、前者2つを併せて竜切手と呼称する。1883年(明治16年)には「円」の単位が表記された切手が発行された。

2012年7月12日木曜日

新撰組

みなさまこんにちは、槙谷美貴子です。
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本日の
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ 」では
幕末を駆け抜けた新撰組についてお話させていただきます。


◆新撰組
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である
なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが多く、実際「新撰組」と表記された史料も多くある。局長の近藤勇自身、表記には両方の字を用いているそうです。

幕末の京都は政治の中心地となり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化した。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保を就任させた。その配下で活動した準軍事的組織が新選組である。同様の組織に京都見廻組があった。ただし、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であり、京都見廻組は幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったと聞きます。

隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した話は有名ですね。

慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられ、翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従って戦い、敗戦に伴い散り散りになり、解散した。

明治政府が新選組と敵対していた倒幕派たちによって樹立された経緯もあり、近年まで史学的に研究されることがほとんどなく、現在における人気は明治時代からの講談や、後述する数々の小説・映画・ドラマなどフィクション作品の影響が大きい。漫画やアニメ、ゲームにもなり、老若男女から高い注目を集め、隊士の墓参りをするファンも多い。イベントも開催されているんですよ!


私の周りでは新撰組の人気は常にあるように思われます。
色んなものに流行やブームなどがあり、それは一時的な盛り上がりを見せてその後は下火になってしまいがちですが、歴史というジャンルにおいては常に歴史を愛するファンの方々がおり、衰える事のない盛り上がりを見せていますね^^

私自身歴史という物に、魅せられているのですが^^
いつか新撰組の聖地巡りをしてみたいものです。


2012年6月15日金曜日

メガネの歴史

こんにちは、槙谷美貴子です。
今回槙谷美貴子が調べたのはメガネの歴史です。
メガネの歴史は古く、紀元1世紀皇帝ネロの家庭教師だった小セネカが「文字がどんなに小さくて不明瞭でも、水を満たした球形のガラス器やグラスを通せば、拡大してはっきり見ることができる」と書いているそうです。
ネロ自身もエメラルドを矯正レンズ代わりにして剣闘士の戦いを観戦したと言われているんですよ。
今のような形にはなっていませんが、原理としてはあったのですね。
矯正レンズは9世紀のアッバース・イブン・フィルナスが使っていたと言われているそうで、彼は非常に透明なガラスの製造方法を考案し、そのようなガラスを半球形にして磨き、文字を拡大して見るのに用いたものを reading stone といったそうです。
凸レンズを使った拡大鏡が初めて記録されたのは、1021年にイブン・アル・ハイサムが出版した『Kitab al-Manazir』(光学の書)で、これが12世紀にラテン語に翻訳され、それに基づいて13世紀イタリアで眼鏡が発明されることになったそうですね。
見えないものを見るために、昔から工夫がされていたんですね。
槙谷美貴子がメガネについて調べました。

2012年6月11日月曜日

笛の歴史

お久しぶりです槙谷美貴子です
今回の槙谷美貴子の歴史ブログは笛の歴史のことを話します

奈良・平安時代において笛というと主に雅楽の管楽器であり、現在の龍笛(竜笛)、笙、篳篥、高麗笛、神楽笛のほか尺八、簫(しょう)なども用いられていた。このうち笙、篳篥は後に笛とは区別されるようになる。神楽笛は大和笛とも呼ばれることから、大陸から龍笛や高麗笛が伝来する以前の日本に、すでに笛が存在していたと考えられる。事実、奈良県天理市星塚一号古墳(古墳時代後期)から横笛と思しき遺物が出土している。ただし、これは奈良時代以降の横笛の形状とは異なる点も多い。源氏物語にも種々の笛が登場するが、単に笛という場合は龍笛(竜笛)を指すことが多く、そのほかは「さくはちのふえ」(尺八)、「さうのふえ」(笙)、「こまぶえ」(高麗笛)などのように限定している。物語中で笛の登場する場面は数多く、なかでも柏木の遺品となった笛が夕霧の手を介して薫の手に渡るという形で、薫の出生の秘密に関わる重要な小道具として扱われている。このように平安時代、笛は貴族の男性にとって音楽の教養の基本とされた楽器であり、村上天皇や一条天皇は笛の名手であったといわれる。また、平敦盛や源義平にまつわる笛はいずれも「青葉の笛」と呼ばれて伝えられている。

平安中期以降の田楽は鼓や鉦を中心とするものであったが、絵巻物には笛も見られる。田楽その他の芸能が発展して室町時代にその形を整えた能においても、世阿弥の頃までには囃子の中に笛が取り入れられていたようであるが、それが現在の能管と同じものかはわかっていない。ヨーロッパのフルートは 1549年に鹿児島に到着したザビエルと共に日本に入ったことがポルトガル側の資料に残っている。




2012年4月11日水曜日

今行ってみたい博物館 『国立歴史民俗博物館』

槙谷美貴子です!みなさん、こんにちは。
歴史をさかのぼると、とても意外なことがわかったり
当時の人の暮らしが浮かび上がったりしてとても面白いですね。
槙谷美貴子は、歴史のテレビ番組を見るのがとてもすきです。
中には、歴史を経るごとに、脚色されたり、変わってしまった史実や間違って解釈されていることなど沢山あるかもしれないですが、知るほど、謎が深まったりして興味が沸いてきます。

槙谷美貴子が最近、行ってみたい歴史博物館は、千葉県佐倉市にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する、『国立歴史民俗博物館』です。

・展示品

歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっているそうです。
展示室は常設展示の第1~第5展示室と、企画展示室に分かれています。
常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色であるそうです。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されています。2011年現在の展示は以下のような構成になっているそうです。

第1展示室 原始・古代(旧石器時代-奈良時代)日本文化のあけぼの / 稲と倭人 / 前方後円墳の時代 / 律令国家 / 沖ノ島
第2展示室 中世(平安時代-安土桃山時代)王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
第3展示室 近世(江戸時代)国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
第4展示室(閉室中) 民俗(民俗展示「日本人の民俗世界」)都市の風景 / 村里の民 / 山の人生 / 海辺の民 / 南島の世界 / 再生の世界
第5展示室 近代(明治時代-昭和初期)文明開化 / 産業と開拓 / 都市と大衆の時代
第6展示室 現代(「戦争-高度経済成長」)戦争と平和/戦後の生活革命

色んなものが展示されているんですね。私が生きている今の時代の物も、いつか
歴史の一部として展示される時がやってくるんでしょうか?

以上、槙谷美貴子が行ってみたい歴史博物館の概要とお話でした。

2012年3月14日水曜日

ハリウッドがカリフォルニアで始まった歴史

こんにちは、槙谷美貴子です。
槙谷美貴子の歴史好きのブログ
歴史のニュースをGoogoleで見ていると、ブラッド・ピットが歴史好きで、
10歳になる息子さんに歴史に興味を持ってもらえるように奮闘中だそうです。
既に自分用の武器や防具などの歴史的な衣装を一通り買いそろて、これから6人の子供全員に歴史を教える計画なんだそうです。トロイにも出演したブラッド・ピットの歴史教育、槙谷美貴子も拝見してみたいです

今回は、ハリウッドの歴史について槙谷美貴子が調べました。

1903年、当時農村だったハリウッドは市制を施行しましたが、1910年にロサンゼルス市と合併しました。20世紀のはじめのこの頃、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであったそうです。

特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作者や映画関連機器製造業者、製造業者ら9社はそれぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (w:en:Motion Picture Patents Company)を1908年に設立したそうです。これに参加しない映画関連業者にはカンパニーから高額の特許料が請求されました。参加が認められなかった中小の制作者らは一斉にこれに反発しました。特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィルムを使って撮影を続行したそうです。

カンパニー側は探偵を雇って違反者を片端から摘発したため、独立系の制作者はカンパニーの目のとどかぬ土地に出かけて映画を制作しました。中でもロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影には理想的で、クリエイターが集まり始めました。また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ手がやってくることを察知して国境を越えて逃げることができました。なお、カンパニーは1912年に反トラスト法違反であると指摘され、1915年には連邦裁判所で反トラスト法違反であるとされたそうです。カンパニーは1917年には消滅し、これに前後してカンパニー参加業者らも次々にハリウッドに拠点を移したそうです。

当時アメリカ経済の中心だった東海岸は天候が悪かったそうです。当時の映画は、フィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影できませんでした。電球などの照明はありましたが、映画撮影を行うには十分な明るさを確保できませんでした。そのため映画会社は、日が長く、地中海性気候のため夏にまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州に次々に移っていきました。また、まだ民族差別の激しかった時代の出演者やクリエイター達は、出自を偽ることが多かったそうです。当時はまだ東海岸を中心にワスプがアメリカの支配層であり、イタリア系やユダヤ系などの真の出自を表に出してはスターにはなれなかったからであるそうです。

最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられました。

最初から、カリフォルニアにあったのでは無かったんですね。
調べると意外なことがわかりました。

以上、槙谷美貴子でした!

2012年2月13日月曜日

織田信長の歴史

槙谷美貴子の歴史好きのブログ」です。こんにちは。
今日も、槙谷美貴子が歴史についてお話させていただきますね。
今回お話するのは、織田信長の歴史です。調べたので、紹介させていただきます。
織田信長は、天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として、那古野城で生誕しました。幼名は吉法師であったそうです。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となります。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多かったらしく、周囲から尾張の大うつけと称されていたのだとか。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られているようですね。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていたそうです。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せていたのだとか。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなったそう。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称します。天文17年(1548年)には、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚したそう。
また、天文18年(1549年)に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話があるそうです。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したみたいですね。
天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぎます。その2年後の天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害し、信長は嘆き悲しんで師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立して政秀の霊を弔ったとされています。
当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していたのだそうです。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大したのだとか。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てたそうなんですが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告し、これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害したのだそうです。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害したそう。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めたとされています。これによって織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となったんですね。
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却したようです。この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長に渡されたのだとか。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとしたそうです。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立するんですね。
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免したそうです。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てますが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されているようですね。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てます。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害したのだそう。直接手を下したのは河尻秀隆とされているみたいです。
さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放したのだそう。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となったんですね。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見しました。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕したようです。

織田信長の歴史、こうしてみると面白いですね。
では今日はこのへんで。槙谷美貴子でした。

2012年1月23日月曜日

蕎麦の歴史

槙谷美貴子の歴史好きのブログ

槙谷美貴子です。こんにちは!
今回の『槙谷美貴子の歴史好きのブログ』では
日本蕎麦の歴史について調べました。

バの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実であるそうです。
『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載していますが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られていません(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介しています)。更に鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて食膳にも据えかねる蕎麦料理が出されたことに対する素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記しています。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言えるそうです。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えて僅かに栽培する程度の雑穀だったと考えられています。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しているが、今日における科学的根拠は無いそうです。

蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれています。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在します。

この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明しています。

他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。

しかしながら、江戸時代初期から文献では、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っています。17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着しました。

蕎麦はかなり以前からあるものなんですね。
以上、槙谷美貴子が蕎麦の歴史をご紹介しました。