2011年8月29日月曜日

槙谷美貴子と口紅の歴史

槙谷美貴子です。こんにちは。
前回のマニキュアに引き続き、今回は口紅の歴史について槙谷美貴子が調べてきました。

口紅(くちべに、lipstick)は、人がメイクアップをする際、唇を彩るために使われる化粧品の一種。多くは、スティック状である。

約7万年前に、悪魔などが口や耳などの穴から進入してこないよう、赤色の物を塗る習慣があったのが始まりと言われている。これは、出土した当時の人骨の口などに赤色が付着している痕跡があったため判明した。別の説では、紀元前3000年頃のエジプト人が使用したと思われる口紅が発見され、紀元前1200年頃のエジプトで、人々が目や唇に化粧している絵画も発見されている。

■口紅の効果
現代において、化粧のうちでも重要な要素とされ、色、質感などが重要である。光沢も重要であり、光彩を放つパールやラメが混入されていることがある。
保湿機能などが付加され、冬期の乾燥した環境下でも使用できる製品が開発されている。
夏期には紫外線防止効果のあるものも選ばれる。

今は口紅よりリップを使っている女性の方が多いような気がしますが。。
どうなんでしょうかね?

槙谷美貴子



2011年8月22日月曜日

槙谷美貴子とマニキュアの歴史

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日槙谷美貴子はマニキュアの歴史について調べてみました。

マニキュア(manicure)とは化粧の一種。手の爪を塗装すること。また、それに用いる化粧品としての塗料のこと。美爪術、爪化粧ともいう。

足の爪に施す場合はペディキュアと呼んで区別する。

manicure (マニキュア)という言葉の語源は、ラテン語で「手」を意味する manus と「手入れ」を意味する cura が合わさったものである。つまり本来は「手の手入れ」という意味で、ネイルケア全般を指す語であった。 ちなみに「ペディキュア」も「足」を表すラテン語 pes(語幹 ped-) + cura が語源である。

爪に着色をする文化は古代エジプトにはすでにあったとされているが、現在のようなマニキュアが生まれたのは1950年代のアメリカで、自動車用などのラッカー塗料の発明と同時期である。

日本にも、平安時代に生まれ、江戸時代では爪紅(つまべに)と呼ばれており、ホウセンカの紅い汁を爪にこすりつけることが行われていた


槙谷美貴子もたまに気分転換がてらマニキュア塗りますね。
最近ではネイルアートにも興味を持っています。フレンチネイル可愛いですよね。

2011年8月8日月曜日

ネットの歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日槙谷美貴子はネットの歴史について調べました

○1960年、インターネットの前身ARPANETに直接影響を及ぼした概念であるJ・C・R・リックライダーのタイムシェアリングシステムが発表。

○1969年10月29日、UCLAとスタンフォード研究所(SRI)間で接続され、同年12月5日までにUCサンタバーバラ、ユタ大学が接続され4つのノードとなる。

○1983年、ARPANETがプロトコルをそれまで利用していたNetwork_Control_ProgramからTCP/IPに切り替える。

○1984年9月、村井純が慶應義塾大学と東京工業大学を接続。同年10月に東京大学が接続され、日本におけるインターネットの起源となる。(JUNET)

○1985年、アメリカの「全国科学財団」による学術研究用のネットワーク基盤NSFNetが作られ、インターネットのバックボーンの役割がARPANETからNSFNetへ移行する。

○1988年、アメリカで商用インターネットが始まる。1989年、商用ネットワークとNSFNetとの接続が開始される。

○1990年、スイスの素粒子物理学研究所・CERNの研究員であったティム・バーナーズ=リーは、当時上司だったロバート・カイリューらの協力によりWorld Wide Webシステムのための最初のサーバとブラウザを完成させる。

○1994年7月、アメリカ・タイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」という記事が掲載される。ARPANET立ち上げ時のIPTO責任者であったロバート・テイラーは、この記事に対して事実とは異なる旨、正式な抗議をタイム誌に対して行った。以降、ARPANETは核戦争時のための軍事ネットであるという俗説が流布するようになる。

○1995年には、NSFNetは民間へ移管され、Windows95の登場で一般個人でのインターネットの利用に加速がつく。なお、Windows95の初期バージョンではインターネット関連の機能は「Microsoft Plus!」による拡張機能とされていたが、OSR2以降は標準搭載されている。

以上、ウィキペディアより引用させていただきました。世界的に常時接続環境が提供されているのは都市部が中心で、地方や離島での情報格差が問題になっているそうですね。また、発展途上国では多くの国民にとって端末であるパソコンが高価であり通信料金も高いため、インターネットカフェがインターネットの普及を支えているのだそうです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。

2011年8月1日月曜日

缶コーヒーの歴史と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日も色んなものの歴史についてお話させていただきます。今日は缶コーヒーについて。
缶コーヒーが出来る前は、コーヒーは駅などで瓶に入れて販売されており飲み終わったら瓶を返却していたみたいですね。しかし、創業者の上島忠雄さんは列車の発車に間に合わず飲み残しのまま売店に返却したことをひどく痛んで、何かいいものはないかと模索した中で加藤顕さんの「缶に入れてはどうか?」とのアイデアを生かし発売に至った…のだとか。
話によると、1980年までは250mg缶が主流だったそうです。その後、190mgは量が少なくしたことで美味しさをアピールしたことが受けたため、爆発的にヒットしたのだとか。それ以降どの会社でも缶コーヒーはショート缶という定説になったみたいですね。同じ頃、缶コーヒーの蓋の散乱が問題視されて飲み口が分離タイプの「プルタブ」から「ステイオンタブ」へ変更になります。
因みに、現在の販売量の順位は1位ジョージア、2位ボス、ワンダ、ファイアーとなっているみたいですよ。