2011年7月20日水曜日

紙幣の歴史と槙谷美貴子

こんにちは!槙谷美貴子です!
少し時間が空いてしまって申し訳ないです。今日も、槙谷美貴子が興味を持ったものの歴史について、お話させていただきますね。
今回お話するのは、紙幣の歴史です。
本来貨幣は貴金属など普遍的な価値を持つ財貨そのもので、昔から王侯がコインの鋳造権を独占して市場に流通させていたのだそうです。これらの貴金属による貨幣は運搬に不便であるだけでなく、摩耗による減価の問題もあったため、次第に貴金属との交換を保証された債務証書(手形)に置き換わっていったんですね。これが紙幣のはじまりなのだそうです。

世界初の紙幣は宋代に鉄銭の預り証として発行された交子みたいですね。ヨーロッパでは、民間の銀行が発行した金銀の預り証である金匠手形 (Goldsmith's note) が通貨として流通していたそうですが、国家による承認を受けたものとしては1661年にスウェーデンの民間銀行・ストックホルム銀行が発行したのが、銀行券としては最初のものだそうです。また、1694年には英国でイングランド銀行が設立され、同行の約束手形が発行されたのだとか。同行の約束手形は当初手書きだったみたいなんですが、のちに印刷に改められたことにより、交換手形として広く流通し始めたみたいですね。イングランド銀行は1844年のピール銀行条例によって英国唯一の発券銀行とされました。
近代になって、金本位制(または銀本位制)が確立し、本位貨幣たる金貨や銀貨又は銀行に保管する金地金等と交換ができる紙幣は兌換紙幣と呼ばれ、券面にはそれらの記載があったそうです。例えば、アメリカでは、ブルーシールの兌換銀券とイエローシールの兌換金券があったみたいですよ。
しかし、1929年の世界恐慌以降、財政・金融政策が困難になるなどの理由から各国で金本位制を廃止し、管理通貨制度へ移行、多くの国の紙幣は兌換紙幣から正貨との交換が出来ない不換紙幣となってしまいます。普遍的な財貨である金銀との交換価値が失われた紙幣は、時に政府による濫発や中央銀行による国債大量引き受けなどでハイパーインフレを引き起こしたそうですが、中央銀行による不断の通貨安定政策により一定の信頼を得て、中心的な法貨として国民生活に広く流通していますね。

紙幣の歴史、写真も一緒に見ると本当に面白いですね。暇なときにでも検索してみると、いい暇つぶしになると思います。
それでは今日はこの辺で。失礼します。槙谷美貴子でした。

2011年7月7日木曜日

現代英語と槙谷美貴子

こんにちは!「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」の、槙谷美貴子です。今日は近代英語までで止まっていた英語史の歴史の、最後、現代英語についてお話させていただきます。よろしくお願いします。
20世紀になりますと、イギリスが世界覇権を握るに従い、英語話者の人口が増大することとなります。世界各国からの語彙の流入も継続し、日本語からは tsunami、manga、kamikaze などが辞書に登録されるようになったみたいですね。
アメリカではアフリカ系移民が生み出した歌唱的要素を豊富に含む黒人英語が成立しました。この黒人英語と、アメリカ原住民の言葉、移民たちが持っていった近代英語がアメリカ英語(米語)を成立させたのだとか。米語は英語の方言であるが、分離後400年をへて、その隔たりはかなり大きいものとなっているのだそうです。
黒人英語には jitter、bogus、yam などがありますが、その中でも都会に住む黒人を中心に使われている口語は、流行語・歌唱語としてアメリカや、さらに世界中に影響を与えることがしばしばだそうです。
離島などでは古い語彙が残りやすいそうなんですが、アメリカもその例に漏れず、fall(秋)、quit(止める)、trash(ごみ)などの言葉、用法はイギリスではかつて存在しましたが、現代ではもう使われていないのだとか。また、イギリスでの意味・用法からずれ、発展していった言葉もあるのだそうです。
また、アメリカで使われる英語の特徴として、品詞を変えて使用したり、長単語の代わりに熟語を使ったりするなど、簡略化の傾向が見られるみたいですね。
アメリカの覇権が確立すると共に、アメリカ式の英語の影響力は強まり、現在では逆に英語(イギリス英語)にも影響を与えるようになっていますね。
以上、英語の歴史でした。
それでは今日はこの辺で。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」の、槙谷美貴子でした。

2011年7月6日水曜日

槙谷美貴子の歴史好きのブログ【チーズ好きの槙谷美貴子が語るチーズの歴史と槙谷美貴子のこと】

槙谷美貴子です、こんにちは

今回はチーズの歴史を紹介しようと思います

ヨーロッパにおけるチーズの歴史

チーズ発祥の時期や場所ははっきりとした記録や資料がないので不明ですが、ルーツは意外にもヨーロッパでなくアジア(モンゴル)と言う説が有力だそうです。

しかし、モンゴルで作られていたチーズは、加熱濃縮して凝固させる硬質チーズ(ホロート)や、酸で凝固させる軟質チーズ(ビヤスラグ)です。それに対し、酵素で乳を凝固させる方法で作るチーズがアジアから中近東、トルコ、ギリシャを経てヨーロッパに伝わりました。
これが現在私たちがごくふつうに食べているチーズのルーツだそうです。

ギリシャ神話には(B.C.1000~1500年)ギリシャの代表的なチーズ、フェタの記述があるし、イタリアのパルメザン、ゴルゴンゾーラもB.C.1000年頃には存在していたそうです。
その後ローマ帝国がヨーロッパに勢力を拡大し、スイス、フランス、オランダへとチーズ作りも伝わっていきました。そしてそれぞれの土地の風土や気候の違いで個性の違ったチーズが生まれたのです。

日本でのチーズの歴史

日本では6世紀に大和朝廷が百済から乳製品を献上されたとの記述があり、平安時代に朝廷で乳が栄養食品として珍重されていましたが、朝廷の力が衰えた鎌倉時代以降は乳はほとんど利用されなくなりました。
明治時代に入り一般国民に牛乳をはじめとする乳製品が普及するようになったのです。

チーズが初めて製造されたのは明治8年(これは試製されるにとどまった)。
明治33年には函館のトラピスト修道院で製造が開始されました。しかし本格的な量産が始まったのは昭和7年、雪印乳業(当時は北海道製酪組合連合会)と明治乳業がプロセスチーズを量産しはじめたことからです。

両社はプロセスチーズの原料となるナチュラルチーズの製造技術の確立も同時に継続し、雪印はゴーダチーズの、明治はチェダーチーズの製造を主にして行きました。
そして戦後、食生活が西洋風に変化して学校給食にもチーズが登場するようになって確実にチーズが生活に浸透していきました。けれど私が子供の頃はプロセスチーズばかりでナチュラルチーズなどは店先ではめったに見られませんでした。
チーズと言えば6Pチーズや蒲鉾状の雪印の黄色い、牛の絵のついた箱に入ったプロセスチーズ、スライスチーズ、良くてピザ用のとろけるチーズなんかでした。
しかし実は、国産チーズがすべてプロセスチーズばかりだったわけではなく、前記のゴーダ、チェダー以外にもブルーチーズ(昭和25年 雪印)やカマンベールチーズ(昭和34年 明治)を開発、販売していますが、当時ではどうやらまだ時期尚早で受け入れられなかったようです。

今現在は多くの会社や農場が多種多様のチーズを生産しています。

チーズのタイプ別の説明
白カビタイプのチーズ

表面が白カビで覆われたカマンベールチーズなどを代表とする軟質のチーズ。チーズの原料は牛乳で、熟成期間は他のタイプのチーズに比べたら短いほうです。
この白カビはチーズが作られる過程で人為的にカビの胞子を表面にスプレーします。中身はクリーミーで未熟なうちは白っぽい芯があり熟成するにつれだんだん黄みも増してきてトロリと流れ出すほどやわらかくなります。
熟成がちょうど良いとたいへんコクがあっておいしいのですが、進みすぎると苦みが出るし、表面もカビが枯れて固く汚い感じになりまずくなります。チーズをあまり食べたことのない初心者だと思われる人はこのタイプのチーズがくせもなくやさしい味わいなのでおすすめです。

青カビタイプのチーズ

チーズの内部に青カビが繁殖し、大理石模様のような様相でブルーチーズと呼ばれています。
原料は牛乳や羊乳で、チーズを熟成させる前に内部に青カビ(薬のペニシリンを作るカビの仲間)を繁殖させ、このカビによってチーズの熟成がすすみます。ですから、白カビのチーズと違い中心部から熟成がすすみ外側に向かうほど熟成が遅れます。
世界三大ブルーチーズとしてフランスのロックフォール、イギリスのスティルトン、イタリアのゴルゴンゾーラが有名ですが、歴史も古くロックフォールは約2000年も前から作られています。
食べ慣れない人は、見た目もちょっとグロテスクで、カビをそのまま食べるというのにも抵抗があるようですが、慣れてくるとかび臭さとチーズのコクや滑らかさが不思議とやみつきになってきます。塩味がきついのでほぐしてサラダにかけたり、牛乳やクリームでのばしてディップにしてもいいです。

山羊乳のチーズ(シェーブル)

小さな円筒形や手のひら大のピラミッド型、黒く灰のまぶしたものなどちょっと風変わりな形をしています。
豊かな牧草のない山岳地帯などで発達しました。歴史も古く、牛乳から作るチーズが作られる以前から作られていました。
山羊の乳は高地の栄養分の凝縮した草を食べるので、質の良いたんぱく質でコクがあり風味もあります。まだ食べ慣れない日本人にとっては、牛乳から作るチーズと比べるとはるかに違う独特の風味があり、酸っぱいような渋いような、あっさりしているようなコクがあるような、とても繊細な味わいです。
熟成段階においても味が変わり、若いものはボソボソとして酸味がありますが、熟成するにつれクリーミーになりコクも増してきます。山羊は1~3月に子供を産みその後7月頃まで乳を出します。ですからシェーヴルチーズの旬は春から秋にかけてですが、最近では冷凍技術を駆使して年中作られるようになりました。

ウォッシュタイプのチーズ

外皮がオレンジ色で、強い匂い(はっきり言って納豆系の腐ったようなにおい)がしています。
チーズの外側に植えつけられた菌が、繁殖してねばねばとするのを抑えるために、塩水やその地方の地酒(例えばシードルやカルバドス)で外皮を洗いながら熟成させます。中世の修道院で作られはじめました。
外皮を洗われることにより外側は固くなり強烈な香りがしますが、中側は柔らかくたいへん風味豊かなコクのあるチーズで、内と外とでは大違いの印象です。このチーズの特徴は、なんと言っても“におい”なので、これに慣れなくてはなかなかおいしくいただくことができませんが、塩辛や古漬けをおいしいと思える人であれば問題はないでしょう。

ハード・セミハードタイプのチーズ

ふつう店頭には適当な大きさにカットされてならんでいますが、このタイプのチーズは大きいものでは数10キロと巨大なものもある大型のチーズです。
プレス器で強く圧力をかけることによって水分を抜き、長期間かけて熟成させるので硬質で保存のきくチーズになります。
もともと山深い地方の冬場の保存食として重宝されていたそうです。固さの点でハードタイプとセミハードタイプとに分けられます。これらのチーズはテーブルチーズとしていただくほかに、パルメザンに代表される超ハードタイプのチーズはおろして料理の調味料としても用いられていますし、スイスのエメンタールやグリュイエールはあたためてとかしてチーズホンデュの材料としたりと、幅広い楽しみ方があります。

フレッシュタイプのチーズ

熟成をさせる以前のチーズを総称してフレッシュタイプのチーズと呼びます。
どれも真っ白で酸味があってヨーグルトとチーズのかけあわせのような口当たりです。日持ちがしないのも特徴なのですが、保存性の良い容器の開発により日本へも輸出されています。
ほとんど生食するかお菓子作りの材料として使ったりしますが、そのまま食べるとさっぱりとしているのでジャムや砂糖とともに食べたり、もうすでにスパイスやハーブが入って商品になっているものもあります。クリームチーズはこのタイプのチーズにクリーム、またはクリームと牛乳を混合して作ったものです。

なぜチーズかというと槙谷美貴子はチーズ好きだからです。
リコッタチーズやブリーチーズが特に美味しいと思いますね。
チーズて保存がきく食品でそのまま食べることもできますし、材料にすることもできます。
また乳製品は基本的に価格もそれ程高くないので普段食べることができる栄養価の高い食べ物というのも良いと思います。

2011年7月4日月曜日

槙谷美貴子と紅茶の歴史

こんにちは。槙谷美貴子です。
現在、世界の茶の生産の8割は紅茶です。
1985年の茶の収穫量は2,333(千トン)、そして緑茶の生産量は424(千トン)程度です。
日本では中国から伝わってきた緑茶が普及しており、紅茶の消費量は緑茶に遠く及びません。
そしてお茶のふるさと中国も緑茶の消費が中心です。
ところが、それ以外の地域、ヨーロッパやアメリカではお茶といえば紅茶特に、槙谷美貴子も好んで飲んでいる紅茶の輸入数量では圧倒的な国イギリスは紅茶の本場です。
いったい、どのようにしてイギリスで紅茶が隆盛を極めるようになったのでしょうか?

1700年に東インド会社が中国からイギリスに運んだ積荷のお茶の内訳は、たとえば、安徽省の下級緑茶300梱と福建省の下級烏龍茶80梱であったりします。 
1720年頃には、女王にあやかって、銀のポットや中国製の陶磁器ののポットを使って、茶を客の目の前で淹れることが上流階級でのステータスシンボルとなり、客人がお茶の席で女主人と会話を楽しむのが社交のエチケットであるとされるようになっていきます。
1720年頃には主として値段の安い粉緑茶が多く輸入され、イギリス人に飲まれており、茶の関税引き下げにより、中国からの輸入量は100万ポンドを超えるまでになりました。
その頃中国茶の輸入の独占権を得た、イギリスの東インド会社の中国茶輸入量は増え続け、1760年には東インド会社の輸入金額の40%を占めるようになります。
このときには、イギリスのお茶の消費量はすでに他のヨーロッパ諸国の全消費量の約3倍に達していました。
18世紀後半には、イギリスにもスタッフォードシャーを中心に窯業がおこり、イギリス独自の陶磁器が大量生産できるようになります。
一説には、1784年に余干臣が宦官をやめて商人になり福建省から安徽省にやってきて、福建省の発酵茶「工夫茶」にならって東至県に工場を設立し、工夫茶にならって茶の製造を始めた。次の年には、祁門県(祁の偏は[示]です)に二ヶ所の製茶工場を設立して「祁門紅茶」を造りこれを拡大していった、といいます。
また一説には、1786年に祁門の南の貴渓の胡元竜が日順茶工場を開設して、烏龍茶を改良して「祁門紅茶」を完成させたと伝えられています。

槙谷美貴子は紅茶は茶葉が船旅中に発酵してできた者と聞いていましたが間違いみたいですね。

2011年7月1日金曜日

近代英語と槙谷美貴子

槙谷美貴子です。こんにちは。
今日は近代英語について槙谷美貴子がお話させていただきますね。
中英語の後、15世紀から16世紀にかけて、発音と綴りが著しく異なるようになったそうです。それまで「フィーヴェ」は five、「ロート」は root、「セーク」は seek というように、綴りは発音のとおりだったんですが、この時期から発音が大きく変化し、その一方で綴りについては「発音の変化にあわせて改定する」ということを一度も行わなかったため、両者の間に乖離が生じ、現在の英語学習者の頭痛の遠因ともなっているのだとか。
また、16世紀から17世紀には、啓蒙時代の文人たちが、「粗野な」英語の水準を高めようと、ラテン語、ギリシャ語を借用したため、学術用語を中心に数百ものラテン語が定着したのだそうです。例えばmcynic、analogy、animate、explain、communicate などですね。
一方でフランスとの交流も相変わらず盛んだったため、フランス語も絶え間なく流入したようです。しかし、以前のノルマン・コンクエスト時代に入ってきたフランス語と同じ単語が重ねて入ってくることもあり、その場合は違った形と意味で借用されたのだとか。assay(金銀の含有量を調べる)は1338年に入ってきた言葉ですが、フランスではその後意味が広がり、「試みる」の意味となり、それが1597年に再流入してきた時には essay(試みる、随筆)となったみたいですね。
また、大航海時代の到来と共にイギリスの生活圏が広がり、世界各国から新しい単語が入ってきたのもこの時代の特徴だと言われています。例えば、イタリア語から ballot、スペイン語から cigar、ポリネシア語からtaboo、ペルシャ語から(ヒンディー語を経由)pyjamasなど。

機会があれば近代英語までお話したいところです(笑)
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。