槙谷美貴子です!みなさん、こんにちは。
歴史をさかのぼると、とても意外なことがわかったり
当時の人の暮らしが浮かび上がったりしてとても面白いですね。
槙谷美貴子は、歴史のテレビ番組を見るのがとてもすきです。
中には、歴史を経るごとに、脚色されたり、変わってしまった史実や間違って解釈されていることなど沢山あるかもしれないですが、知るほど、謎が深まったりして興味が沸いてきます。
槙谷美貴子が最近、行ってみたい歴史博物館は、千葉県佐倉市にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する、『国立歴史民俗博物館』です。
・展示品
歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっているそうです。
展示室は常設展示の第1~第5展示室と、企画展示室に分かれています。
常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色であるそうです。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されています。2011年現在の展示は以下のような構成になっているそうです。
第1展示室 原始・古代(旧石器時代-奈良時代)日本文化のあけぼの / 稲と倭人 / 前方後円墳の時代 / 律令国家 / 沖ノ島
第2展示室 中世(平安時代-安土桃山時代)王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
第3展示室 近世(江戸時代)国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
第4展示室(閉室中) 民俗(民俗展示「日本人の民俗世界」)都市の風景 / 村里の民 / 山の人生 / 海辺の民 / 南島の世界 / 再生の世界
第5展示室 近代(明治時代-昭和初期)文明開化 / 産業と開拓 / 都市と大衆の時代
第6展示室 現代(「戦争-高度経済成長」)戦争と平和/戦後の生活革命
色んなものが展示されているんですね。私が生きている今の時代の物も、いつか
歴史の一部として展示される時がやってくるんでしょうか?
以上、槙谷美貴子が行ってみたい歴史博物館の概要とお話でした。
2012年4月11日水曜日
2012年3月14日水曜日
ハリウッドがカリフォルニアで始まった歴史
こんにちは、槙谷美貴子です。
槙谷美貴子の歴史好きのブログ
歴史のニュースをGoogoleで見ていると、ブラッド・ピットが歴史好きで、
10歳になる息子さんに歴史に興味を持ってもらえるように奮闘中だそうです。
既に自分用の武器や防具などの歴史的な衣装を一通り買いそろて、これから6人の子供全員に歴史を教える計画なんだそうです。トロイにも出演したブラッド・ピットの歴史教育、槙谷美貴子も拝見してみたいです
今回は、ハリウッドの歴史について槙谷美貴子が調べました。
1903年、当時農村だったハリウッドは市制を施行しましたが、1910年にロサンゼルス市と合併しました。20世紀のはじめのこの頃、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであったそうです。
特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作者や映画関連機器製造業者、製造業者ら9社はそれぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (w:en:Motion Picture Patents Company)を1908年に設立したそうです。これに参加しない映画関連業者にはカンパニーから高額の特許料が請求されました。参加が認められなかった中小の制作者らは一斉にこれに反発しました。特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィルムを使って撮影を続行したそうです。
カンパニー側は探偵を雇って違反者を片端から摘発したため、独立系の制作者はカンパニーの目のとどかぬ土地に出かけて映画を制作しました。中でもロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影には理想的で、クリエイターが集まり始めました。また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ手がやってくることを察知して国境を越えて逃げることができました。なお、カンパニーは1912年に反トラスト法違反であると指摘され、1915年には連邦裁判所で反トラスト法違反であるとされたそうです。カンパニーは1917年には消滅し、これに前後してカンパニー参加業者らも次々にハリウッドに拠点を移したそうです。
当時アメリカ経済の中心だった東海岸は天候が悪かったそうです。当時の映画は、フィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影できませんでした。電球などの照明はありましたが、映画撮影を行うには十分な明るさを確保できませんでした。そのため映画会社は、日が長く、地中海性気候のため夏にまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州に次々に移っていきました。また、まだ民族差別の激しかった時代の出演者やクリエイター達は、出自を偽ることが多かったそうです。当時はまだ東海岸を中心にワスプがアメリカの支配層であり、イタリア系やユダヤ系などの真の出自を表に出してはスターにはなれなかったからであるそうです。
最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられました。
最初から、カリフォルニアにあったのでは無かったんですね。
調べると意外なことがわかりました。
以上、槙谷美貴子でした!
槙谷美貴子の歴史好きのブログ
歴史のニュースをGoogoleで見ていると、ブラッド・ピットが歴史好きで、
10歳になる息子さんに歴史に興味を持ってもらえるように奮闘中だそうです。
既に自分用の武器や防具などの歴史的な衣装を一通り買いそろて、これから6人の子供全員に歴史を教える計画なんだそうです。トロイにも出演したブラッド・ピットの歴史教育、槙谷美貴子も拝見してみたいです
今回は、ハリウッドの歴史について槙谷美貴子が調べました。
1903年、当時農村だったハリウッドは市制を施行しましたが、1910年にロサンゼルス市と合併しました。20世紀のはじめのこの頃、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであったそうです。
特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作者や映画関連機器製造業者、製造業者ら9社はそれぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (w:en:Motion Picture Patents Company)を1908年に設立したそうです。これに参加しない映画関連業者にはカンパニーから高額の特許料が請求されました。参加が認められなかった中小の制作者らは一斉にこれに反発しました。特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィルムを使って撮影を続行したそうです。
カンパニー側は探偵を雇って違反者を片端から摘発したため、独立系の制作者はカンパニーの目のとどかぬ土地に出かけて映画を制作しました。中でもロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影には理想的で、クリエイターが集まり始めました。また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ手がやってくることを察知して国境を越えて逃げることができました。なお、カンパニーは1912年に反トラスト法違反であると指摘され、1915年には連邦裁判所で反トラスト法違反であるとされたそうです。カンパニーは1917年には消滅し、これに前後してカンパニー参加業者らも次々にハリウッドに拠点を移したそうです。
当時アメリカ経済の中心だった東海岸は天候が悪かったそうです。当時の映画は、フィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影できませんでした。電球などの照明はありましたが、映画撮影を行うには十分な明るさを確保できませんでした。そのため映画会社は、日が長く、地中海性気候のため夏にまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州に次々に移っていきました。また、まだ民族差別の激しかった時代の出演者やクリエイター達は、出自を偽ることが多かったそうです。当時はまだ東海岸を中心にワスプがアメリカの支配層であり、イタリア系やユダヤ系などの真の出自を表に出してはスターにはなれなかったからであるそうです。
最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられました。
最初から、カリフォルニアにあったのでは無かったんですね。
調べると意外なことがわかりました。
以上、槙谷美貴子でした!
2012年2月13日月曜日
織田信長の歴史
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」です。こんにちは。
今日も、槙谷美貴子が歴史についてお話させていただきますね。
今回お話するのは、織田信長の歴史です。調べたので、紹介させていただきます。
織田信長は、天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として、那古野城で生誕しました。幼名は吉法師であったそうです。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となります。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多かったらしく、周囲から尾張の大うつけと称されていたのだとか。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られているようですね。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていたそうです。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せていたのだとか。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなったそう。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称します。天文17年(1548年)には、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚したそう。
また、天文18年(1549年)に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話があるそうです。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したみたいですね。
天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぎます。その2年後の天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害し、信長は嘆き悲しんで師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立して政秀の霊を弔ったとされています。
当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していたのだそうです。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大したのだとか。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てたそうなんですが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告し、これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害したのだそうです。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害したそう。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めたとされています。これによって織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となったんですね。
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却したようです。この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長に渡されたのだとか。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとしたそうです。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立するんですね。
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免したそうです。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てますが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されているようですね。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てます。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害したのだそう。直接手を下したのは河尻秀隆とされているみたいです。
さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放したのだそう。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となったんですね。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見しました。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕したようです。
織田信長の歴史、こうしてみると面白いですね。
では今日はこのへんで。槙谷美貴子でした。
今日も、槙谷美貴子が歴史についてお話させていただきますね。
今回お話するのは、織田信長の歴史です。調べたので、紹介させていただきます。
織田信長は、天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として、那古野城で生誕しました。幼名は吉法師であったそうです。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となります。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多かったらしく、周囲から尾張の大うつけと称されていたのだとか。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られているようですね。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていたそうです。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せていたのだとか。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなったそう。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称します。天文17年(1548年)には、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚したそう。
また、天文18年(1549年)に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話があるそうです。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したみたいですね。
天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぎます。その2年後の天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害し、信長は嘆き悲しんで師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立して政秀の霊を弔ったとされています。
当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していたのだそうです。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大したのだとか。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てたそうなんですが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告し、これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害したのだそうです。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害したそう。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めたとされています。これによって織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となったんですね。
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却したようです。この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長に渡されたのだとか。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとしたそうです。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立するんですね。
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免したそうです。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てますが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されているようですね。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てます。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害したのだそう。直接手を下したのは河尻秀隆とされているみたいです。
さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放したのだそう。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となったんですね。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見しました。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕したようです。
織田信長の歴史、こうしてみると面白いですね。
では今日はこのへんで。槙谷美貴子でした。
2012年1月23日月曜日
蕎麦の歴史
槙谷美貴子の歴史好きのブログ
槙谷美貴子です。こんにちは!
今回の『槙谷美貴子の歴史好きのブログ』では
日本蕎麦の歴史について調べました。
バの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実であるそうです。
『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載していますが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られていません(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介しています)。更に鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて食膳にも据えかねる蕎麦料理が出されたことに対する素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記しています。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言えるそうです。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えて僅かに栽培する程度の雑穀だったと考えられています。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しているが、今日における科学的根拠は無いそうです。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれています。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在します。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明しています。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。
しかしながら、江戸時代初期から文献では、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っています。17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着しました。
蕎麦はかなり以前からあるものなんですね。
以上、槙谷美貴子が蕎麦の歴史をご紹介しました。
槙谷美貴子です。こんにちは!
今回の『槙谷美貴子の歴史好きのブログ』では
日本蕎麦の歴史について調べました。
バの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実であるそうです。
『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載していますが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られていません(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介しています)。更に鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて食膳にも据えかねる蕎麦料理が出されたことに対する素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記しています。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言えるそうです。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えて僅かに栽培する程度の雑穀だったと考えられています。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しているが、今日における科学的根拠は無いそうです。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれています。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在します。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明しています。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。
しかしながら、江戸時代初期から文献では、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っています。17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着しました。
蕎麦はかなり以前からあるものなんですね。
以上、槙谷美貴子が蕎麦の歴史をご紹介しました。
2011年12月9日金曜日
槙谷美貴子とカレーライスの歴史
こんにちは。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」です。今回も槙谷美貴子が気になった歴史を、ここに書かせていただきますね。宜しくお願いします。
今回は、カレーライスの歴史について。詳しい沿革があったので、引用させていただきます。
1863年(文久3年)、江戸幕府の遣欧使節の三宅秀が、船中でインド人が食事する様子を見て「飯の上へ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と日誌に記している。
1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。
1872年(明治5年)、カレーライスのレシピを記した本「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。
1873年(明治6年)、陸軍(幼年生徒隊)食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の洋食食堂「風月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。
1908年(明治41年)、帝国海軍が配布した「海軍割烹術参考書」にカレイライスのレシピが載る。
1910年(明治43年)、帝国陸軍が配布した「軍隊調理法」にカレー汁(およびライスカレー)のレシピが載る。
1924年(大正13年)、東京・神田の簡易食堂「須田町食堂」が、初めて廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せる。
当時の大卒初任給70円、日雇労働者日当1円63銭
1926年(大正15年)、「浦上商店」(現:ハウス食品)が、カレールウ「即席ホームカレー」を発売。翌年、商品名を「即席ハウスカレー」に変更。
1927年(昭和2年)、東京の「新宿中村屋」「資生堂パーラー」が、高級カレーライス(80銭、50銭)をメニューに載せる。
1929年(昭和4年)、大阪・梅田の「阪急百貨店」の大食堂が、廉価(25銭)でライスカレーを販売。
1930年(昭和5年)、山崎峯次郎(エスビー食品の創業者)が、「ヒドリ印カレー粉」を発売。
1931年(昭和6年)、「C&Bカレー事件」発生。イギリスのクロス・アンド・ブラックウェル (C&B) 社のカレー粉は、品質がよいとされていたが値段が高く、増量材を混ぜたり中身を国産品に詰め替えた安価な偽物が出回った。これは日英間の国際問題にまで発展し、偽造グループが逮捕された。
1941年(昭和16年) - 1945年(昭和20年)、戦争による食料統制のため、軍用以外のカレー粉製造・販売が禁止された。また、陸軍ではライスカレーのことを「辛味入汁掛飯」と言い換えるようになった。
1946年(昭和21年)、終戦によりカレー粉の製造・販売が再開された。
1949年(昭和24年)、浦上商店がカレールウ「即席ハウスカレー」の製造を再開。
1954年(昭和29年)、エスビー食品が即席カレールウ分野に進出。
1960年(昭和35年)、ハウス食品工業株式会社(旧浦上商店)がカレールウ「ハウス印度カレー」を発売。以後、インスタントカレールウの主流は固形タイプになる。
1969年(昭和44年)、大塚食品、初のレトルトカレーソース「ボンカレー」を発売。
1982年(昭和57年)、全国学校栄養士協議会が1月22日を「カレーの日」と決め、全国の小中学校で一斉に「カレー給食」を出す。以後この日が、「カレーの日」とされている。
カレーライスの歴史、面白いですね。
何だかカレーが食べたくなってきました(笑)それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今回は、カレーライスの歴史について。詳しい沿革があったので、引用させていただきます。
1863年(文久3年)、江戸幕府の遣欧使節の三宅秀が、船中でインド人が食事する様子を見て「飯の上へ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と日誌に記している。
1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。
1872年(明治5年)、カレーライスのレシピを記した本「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。
1873年(明治6年)、陸軍(幼年生徒隊)食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の洋食食堂「風月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。
1908年(明治41年)、帝国海軍が配布した「海軍割烹術参考書」にカレイライスのレシピが載る。
1910年(明治43年)、帝国陸軍が配布した「軍隊調理法」にカレー汁(およびライスカレー)のレシピが載る。
1924年(大正13年)、東京・神田の簡易食堂「須田町食堂」が、初めて廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せる。
当時の大卒初任給70円、日雇労働者日当1円63銭
1926年(大正15年)、「浦上商店」(現:ハウス食品)が、カレールウ「即席ホームカレー」を発売。翌年、商品名を「即席ハウスカレー」に変更。
1927年(昭和2年)、東京の「新宿中村屋」「資生堂パーラー」が、高級カレーライス(80銭、50銭)をメニューに載せる。
1929年(昭和4年)、大阪・梅田の「阪急百貨店」の大食堂が、廉価(25銭)でライスカレーを販売。
1930年(昭和5年)、山崎峯次郎(エスビー食品の創業者)が、「ヒドリ印カレー粉」を発売。
1931年(昭和6年)、「C&Bカレー事件」発生。イギリスのクロス・アンド・ブラックウェル (C&B) 社のカレー粉は、品質がよいとされていたが値段が高く、増量材を混ぜたり中身を国産品に詰め替えた安価な偽物が出回った。これは日英間の国際問題にまで発展し、偽造グループが逮捕された。
1941年(昭和16年) - 1945年(昭和20年)、戦争による食料統制のため、軍用以外のカレー粉製造・販売が禁止された。また、陸軍ではライスカレーのことを「辛味入汁掛飯」と言い換えるようになった。
1946年(昭和21年)、終戦によりカレー粉の製造・販売が再開された。
1949年(昭和24年)、浦上商店がカレールウ「即席ハウスカレー」の製造を再開。
1954年(昭和29年)、エスビー食品が即席カレールウ分野に進出。
1960年(昭和35年)、ハウス食品工業株式会社(旧浦上商店)がカレールウ「ハウス印度カレー」を発売。以後、インスタントカレールウの主流は固形タイプになる。
1969年(昭和44年)、大塚食品、初のレトルトカレーソース「ボンカレー」を発売。
1982年(昭和57年)、全国学校栄養士協議会が1月22日を「カレーの日」と決め、全国の小中学校で一斉に「カレー給食」を出す。以後この日が、「カレーの日」とされている。
カレーライスの歴史、面白いですね。
何だかカレーが食べたくなってきました(笑)それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年12月5日月曜日
時計の歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です、こんにちは!「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」、今日も始めさせていただきますね!宜しくお願いします!
今回は時計の歴史についてお話させていただきますね。
現在使われている六十進法の時間単位は、紀元前約2000年にシュメールで考えられたものだそうです。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源と言われていますね。彼らはルクソール近郊にあるアメン=ラーの地でおそらく最初に使われたとされる水時計も作っているのだとか。水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれをクレプシドラの名で呼んでいたようです。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が発明されていたそうです。この水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものと考えられているようですね。その他、中国、日本、イギリス、イラクではロウソク時計も使われていて、インド、チベット、一部ヨーロッパでは日時計が広く使われていたそうです。他に、砂時計も使われていたようですね。初期の時計は日時計が多く、曇りや夜には使うことができなかったのだそうです。最もよく使われた日時計はグノモンと呼ばれる形のものだったそうですが、あくまで日時計なので緯度で値が変化したみたいですね。
時計に脱進機(歯車を一定方向に回す装置)を初めて用いたのは8世紀の中国で、水時計にギアとおもりを組み込んだのは11世紀のイスラム教徒だったそうです。脱進機に王冠歯車を用いたのは14世紀のヨーロッパ、16世紀にゼンマイ式の懐中時計ができ、18世紀に振り子時計ができるまで長い間使われていたのだとか。20世紀になると、クオーツ時計、さらには原子時計へと置き換わっていきますね。クォーツ時計は作るのが簡単で正確なので、腕時計によく使われています。原子時計はこれよりもはるかに正確なので、国際標準時間「国際原子時」をきめるのに使われているのだとか。原子時計は協定世界時にも使われているようですね。
時計について、面白いですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今回は時計の歴史についてお話させていただきますね。
現在使われている六十進法の時間単位は、紀元前約2000年にシュメールで考えられたものだそうです。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源と言われていますね。彼らはルクソール近郊にあるアメン=ラーの地でおそらく最初に使われたとされる水時計も作っているのだとか。水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれをクレプシドラの名で呼んでいたようです。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が発明されていたそうです。この水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものと考えられているようですね。その他、中国、日本、イギリス、イラクではロウソク時計も使われていて、インド、チベット、一部ヨーロッパでは日時計が広く使われていたそうです。他に、砂時計も使われていたようですね。初期の時計は日時計が多く、曇りや夜には使うことができなかったのだそうです。最もよく使われた日時計はグノモンと呼ばれる形のものだったそうですが、あくまで日時計なので緯度で値が変化したみたいですね。
時計に脱進機(歯車を一定方向に回す装置)を初めて用いたのは8世紀の中国で、水時計にギアとおもりを組み込んだのは11世紀のイスラム教徒だったそうです。脱進機に王冠歯車を用いたのは14世紀のヨーロッパ、16世紀にゼンマイ式の懐中時計ができ、18世紀に振り子時計ができるまで長い間使われていたのだとか。20世紀になると、クオーツ時計、さらには原子時計へと置き換わっていきますね。クォーツ時計は作るのが簡単で正確なので、腕時計によく使われています。原子時計はこれよりもはるかに正確なので、国際標準時間「国際原子時」をきめるのに使われているのだとか。原子時計は協定世界時にも使われているようですね。
時計について、面白いですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年11月22日火曜日
宇宙の歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です結構お久しぶりですね
今日の槙谷美貴子の歴史ブログは宇宙の歴史と槙谷美貴子というわけで、宇宙の歴史と槙谷美貴子について説明していきます
宇宙の年表(うちゅうのねんぴょう)は宇宙で起きた出来事の年表であり、ビッグバン理論を中心に他の科学理論も交えてまとめたものである。
宇宙の歴史、宇宙の展開、宇宙の進化などとも表現されるものである。
観測によれば、宇宙はおよそ137億年前[1]に誕生した。それ以来宇宙は3つの段階を経過してきている。未だに解明の進んでいない最初期宇宙は今日地上にある加速器で生じさせられるよりも高エネルギーの素粒子からなる高温の状態であり、またほんの一瞬であったとされている。そのためこの段階の基礎的特徴はインフレーション理論などにおいて分析されているが、大部分は推測からなりたっている。
次の段階は初期宇宙と呼ばれ、高エネルギー物理学により解明されてきている。これによれば、はじめに陽子、電子、中性子そして原子核、原子が生成された。中性水素[2]の生成にともない、宇宙マイクロ波背景が放射された。
そのような段階を経て、最初の恒星とクエーサー、銀河、銀河団、超銀河団は形成された。
宇宙の終焉については、さまざまな理論がある。
最初期の宇宙に関係する概念はいきおい推論がちになる。現在のところこの時代に新たなる知見をもたらすのに十分な規模の加速器による実験は行われていない。多くのシナリオ案は根本の部分に意見のあわない部分がある。例えば
ハートル=ホーキングの境界条件(en:Hartle-Hawking state)
弦風景(en:String theory landscape)
ブレーンインフレーション
弦ガス宇宙論(en:String gas cosmology)
エキピロティック宇宙論(en:Ekpyrotic)
など。補完し合う理論もあるがそうではない理論もある。
槙谷美貴子としては宇宙のことはよくわかりませんね(^ω^;
今日の槙谷美貴子の歴史ブログは宇宙の歴史と槙谷美貴子というわけで、宇宙の歴史と槙谷美貴子について説明していきます
宇宙の年表(うちゅうのねんぴょう)は宇宙で起きた出来事の年表であり、ビッグバン理論を中心に他の科学理論も交えてまとめたものである。
宇宙の歴史、宇宙の展開、宇宙の進化などとも表現されるものである。
観測によれば、宇宙はおよそ137億年前[1]に誕生した。それ以来宇宙は3つの段階を経過してきている。未だに解明の進んでいない最初期宇宙は今日地上にある加速器で生じさせられるよりも高エネルギーの素粒子からなる高温の状態であり、またほんの一瞬であったとされている。そのためこの段階の基礎的特徴はインフレーション理論などにおいて分析されているが、大部分は推測からなりたっている。
次の段階は初期宇宙と呼ばれ、高エネルギー物理学により解明されてきている。これによれば、はじめに陽子、電子、中性子そして原子核、原子が生成された。中性水素[2]の生成にともない、宇宙マイクロ波背景が放射された。
そのような段階を経て、最初の恒星とクエーサー、銀河、銀河団、超銀河団は形成された。
宇宙の終焉については、さまざまな理論がある。
最初期の宇宙に関係する概念はいきおい推論がちになる。現在のところこの時代に新たなる知見をもたらすのに十分な規模の加速器による実験は行われていない。多くのシナリオ案は根本の部分に意見のあわない部分がある。例えば
ハートル=ホーキングの境界条件(en:Hartle-Hawking state)
弦風景(en:String theory landscape)
ブレーンインフレーション
弦ガス宇宙論(en:String gas cosmology)
エキピロティック宇宙論(en:Ekpyrotic)
など。補完し合う理論もあるがそうではない理論もある。
槙谷美貴子としては宇宙のことはよくわかりませんね(^ω^;
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