2012年2月13日月曜日

織田信長の歴史

槙谷美貴子の歴史好きのブログ」です。こんにちは。
今日も、槙谷美貴子が歴史についてお話させていただきますね。
今回お話するのは、織田信長の歴史です。調べたので、紹介させていただきます。
織田信長は、天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として、那古野城で生誕しました。幼名は吉法師であったそうです。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となります。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多かったらしく、周囲から尾張の大うつけと称されていたのだとか。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られているようですね。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていたそうです。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せていたのだとか。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなったそう。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称します。天文17年(1548年)には、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚したそう。
また、天文18年(1549年)に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話があるそうです。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したみたいですね。
天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぎます。その2年後の天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害し、信長は嘆き悲しんで師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立して政秀の霊を弔ったとされています。
当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していたのだそうです。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大したのだとか。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てたそうなんですが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告し、これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害したのだそうです。
斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害したそう。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めたとされています。これによって織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となったんですね。
弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却したようです。この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長に渡されたのだとか。
こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとしたそうです。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立するんですね。
道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免したそうです。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てますが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されているようですね。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てます。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害したのだそう。直接手を下したのは河尻秀隆とされているみたいです。
さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放したのだそう。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となったんですね。
永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見しました。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕したようです。

織田信長の歴史、こうしてみると面白いですね。
では今日はこのへんで。槙谷美貴子でした。