こんにちは、槙谷美貴子です。
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」更新させていただきます!
今回は学生時代に大変お世話になりましたね
シャープペンシルの歴史について槙谷美貴子がご紹介させていただきます。
◆シャープペンシルの歴史
1915年、早川金属工業(現在のシャープ)の創業者である早川徳次は、本業の傍ら金属製繰出鉛筆を発明、「早川式繰出鉛筆」として特許を取得した。これ以前の繰出鉛筆はセルロイド製であり、非常に壊れやすく実用的ではなかったが、この発明により実用に耐えるものになった。初期のものは芯が太かったが、翌年1916年に芯をさらに細いものに改良し、「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」と改名した。この当時はノック式のものはまだ発明されておらず、本体の末端にあるパーツを回転させることで芯を送り出すものだった。なお、この製品は天理市のシャープ総合開発センター歴史ホールに保管されていて、プラチナ萬年筆によって限定復刻された。シャープの社名は金属製繰出鉛筆の発明が由来であり、その製品名から社名が付けられた。なお、シャープは1923年の関東大震災で工場を焼失し、家電メーカーとして再生したため現在は筆記用具を製造販売していない。特許も震災による借金返済のために売却された。 なお、シャープペンシルという呼称は、福井商店の福井庄次郎氏が輸入時に名付けたもので、早川徳次とは知り合いであった事から自分の会社の商品にも付けた事に由来する。
意外と知らない人も多いのではないでしょうか?
シャープの製品のCMなどでシャーペンを握った手のイラストが出ていたりしますが、この歴史に関係していたのです^^
2012年8月23日木曜日
2012年8月7日火曜日
切手の歴史
槙谷美貴子の歴史好きのブログ
こんにちは、槙谷美貴子です。
今回は槙谷美貴子が切手を紹介します。
郵便料金前納のアイデアは19世紀初頭から各国で提案されていて、1819年にはサルデーニャ(現在のイタリア北部)で実施をみていたが、現在と同じく、郵便切手を利用した制度が開始されたのは、1840年のイギリスだそうです。
この時開始された近代的郵便制度(料金の前納・重量制の導入・全国均一料金制など)によって導入された制度の一つとして、初めて郵便切手が発行されたみたいですね。
ローランド・ヒルはイギリスのおける近代郵便制度の考案者ですが、彼は切手の考案者ではありません。
イギリス国内ではジェームズ・チャルマーズがその提案者で、オーストリア(現在のスロベニア)のコシールも、同様の案を1836年に提案しているそうです。
日本で最初に発行された切手は、1871年(明治4年)4月20日に発行された竜文切手で、48文、100文、200文、500文の計4種だったみたいです。
この当時はまだ通貨改革が行われていなかったため、江戸時代の通貨による額面表示がなされていたそうです。
翌年の1872年(明治5年)には「銭」の単位に変更された竜銭切手が発行(ちなみに同切手は日本初の目打付切手である)された。なお、前者2つを併せて竜切手と呼称する。1883年(明治16年)には「円」の単位が表記された切手が発行された。
2012年7月12日木曜日
新撰組
みなさまこんにちは、槙谷美貴子です。
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」更新させていただきます!
本日の
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ 」では
幕末を駆け抜けた新撰組についてお話させていただきます。
◆新撰組
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である
なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが多く、実際「新撰組」と表記された史料も多くある。局長の近藤勇自身、表記には両方の字を用いているそうです。
幕末の京都は政治の中心地となり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化した。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保を就任させた。その配下で活動した準軍事的組織が新選組である。同様の組織に京都見廻組があった。ただし、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であり、京都見廻組は幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったと聞きます。
隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した話は有名ですね。
慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられ、翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従って戦い、敗戦に伴い散り散りになり、解散した。
明治政府が新選組と敵対していた倒幕派たちによって樹立された経緯もあり、近年まで史学的に研究されることがほとんどなく、現在における人気は明治時代からの講談や、後述する数々の小説・映画・ドラマなどフィクション作品の影響が大きい。漫画やアニメ、ゲームにもなり、老若男女から高い注目を集め、隊士の墓参りをするファンも多い。イベントも開催されているんですよ!
私の周りでは新撰組の人気は常にあるように思われます。
色んなものに流行やブームなどがあり、それは一時的な盛り上がりを見せてその後は下火になってしまいがちですが、歴史というジャンルにおいては常に歴史を愛するファンの方々がおり、衰える事のない盛り上がりを見せていますね^^
私自身歴史という物に、魅せられているのですが^^
いつか新撰組の聖地巡りをしてみたいものです。
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」更新させていただきます!
本日の
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ 」では
幕末を駆け抜けた新撰組についてお話させていただきます。
◆新撰組
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である
なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが多く、実際「新撰組」と表記された史料も多くある。局長の近藤勇自身、表記には両方の字を用いているそうです。
幕末の京都は政治の中心地となり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化した。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保を就任させた。その配下で活動した準軍事的組織が新選組である。同様の組織に京都見廻組があった。ただし、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であり、京都見廻組は幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったと聞きます。
隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した話は有名ですね。
慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられ、翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従って戦い、敗戦に伴い散り散りになり、解散した。
明治政府が新選組と敵対していた倒幕派たちによって樹立された経緯もあり、近年まで史学的に研究されることがほとんどなく、現在における人気は明治時代からの講談や、後述する数々の小説・映画・ドラマなどフィクション作品の影響が大きい。漫画やアニメ、ゲームにもなり、老若男女から高い注目を集め、隊士の墓参りをするファンも多い。イベントも開催されているんですよ!
私の周りでは新撰組の人気は常にあるように思われます。
色んなものに流行やブームなどがあり、それは一時的な盛り上がりを見せてその後は下火になってしまいがちですが、歴史というジャンルにおいては常に歴史を愛するファンの方々がおり、衰える事のない盛り上がりを見せていますね^^
私自身歴史という物に、魅せられているのですが^^
いつか新撰組の聖地巡りをしてみたいものです。
2012年6月15日金曜日
メガネの歴史
こんにちは、槙谷美貴子です。
今回槙谷美貴子が調べたのはメガネの歴史です。
メガネの歴史は古く、紀元1世紀皇帝ネロの家庭教師だった小セネカが「文字がどんなに小さくて不明瞭でも、水を満たした球形のガラス器やグラスを通せば、拡大してはっきり見ることができる」と書いているそうです。
ネロ自身もエメラルドを矯正レンズ代わりにして剣闘士の戦いを観戦したと言われているんですよ。
今のような形にはなっていませんが、原理としてはあったのですね。
矯正レンズは9世紀のアッバース・イブン・フィルナスが使っていたと言われているそうで、彼は非常に透明なガラスの製造方法を考案し、そのようなガラスを半球形にして磨き、文字を拡大して見るのに用いたものを reading stone といったそうです。
凸レンズを使った拡大鏡が初めて記録されたのは、1021年にイブン・アル・ハイサムが出版した『Kitab al-Manazir』(光学の書)で、これが12世紀にラテン語に翻訳され、それに基づいて13世紀イタリアで眼鏡が発明されることになったそうですね。
見えないものを見るために、昔から工夫がされていたんですね。
槙谷美貴子がメガネについて調べました。
今回槙谷美貴子が調べたのはメガネの歴史です。
メガネの歴史は古く、紀元1世紀皇帝ネロの家庭教師だった小セネカが「文字がどんなに小さくて不明瞭でも、水を満たした球形のガラス器やグラスを通せば、拡大してはっきり見ることができる」と書いているそうです。
ネロ自身もエメラルドを矯正レンズ代わりにして剣闘士の戦いを観戦したと言われているんですよ。
今のような形にはなっていませんが、原理としてはあったのですね。
矯正レンズは9世紀のアッバース・イブン・フィルナスが使っていたと言われているそうで、彼は非常に透明なガラスの製造方法を考案し、そのようなガラスを半球形にして磨き、文字を拡大して見るのに用いたものを reading stone といったそうです。
凸レンズを使った拡大鏡が初めて記録されたのは、1021年にイブン・アル・ハイサムが出版した『Kitab al-Manazir』(光学の書)で、これが12世紀にラテン語に翻訳され、それに基づいて13世紀イタリアで眼鏡が発明されることになったそうですね。
見えないものを見るために、昔から工夫がされていたんですね。
槙谷美貴子がメガネについて調べました。
2012年6月11日月曜日
笛の歴史
お久しぶりです槙谷美貴子です
今回の槙谷美貴子の歴史ブログは笛の歴史のことを話します
奈良・平安時代において笛というと主に雅楽の管楽器であり、現在の龍笛(竜笛)、笙、篳篥、高麗笛、神楽笛のほか尺八、簫(しょう)なども用いられていた。このうち笙、篳篥は後に笛とは区別されるようになる。神楽笛は大和笛とも呼ばれることから、大陸から龍笛や高麗笛が伝来する以前の日本に、すでに笛が存在していたと考えられる。事実、奈良県天理市星塚一号古墳(古墳時代後期)から横笛と思しき遺物が出土している。ただし、これは奈良時代以降の横笛の形状とは異なる点も多い。源氏物語にも種々の笛が登場するが、単に笛という場合は龍笛(竜笛)を指すことが多く、そのほかは「さくはちのふえ」(尺八)、「さうのふえ」(笙)、「こまぶえ」(高麗笛)などのように限定している。物語中で笛の登場する場面は数多く、なかでも柏木の遺品となった笛が夕霧の手を介して薫の手に渡るという形で、薫の出生の秘密に関わる重要な小道具として扱われている。このように平安時代、笛は貴族の男性にとって音楽の教養の基本とされた楽器であり、村上天皇や一条天皇は笛の名手であったといわれる。また、平敦盛や源義平にまつわる笛はいずれも「青葉の笛」と呼ばれて伝えられている。
平安中期以降の田楽は鼓や鉦を中心とするものであったが、絵巻物には笛も見られる。田楽その他の芸能が発展して室町時代にその形を整えた能においても、世阿弥の頃までには囃子の中に笛が取り入れられていたようであるが、それが現在の能管と同じものかはわかっていない。ヨーロッパのフルートは 1549年に鹿児島に到着したザビエルと共に日本に入ったことがポルトガル側の資料に残っている。
今回の槙谷美貴子の歴史ブログは笛の歴史のことを話します
奈良・平安時代において笛というと主に雅楽の管楽器であり、現在の龍笛(竜笛)、笙、篳篥、高麗笛、神楽笛のほか尺八、簫(しょう)なども用いられていた。このうち笙、篳篥は後に笛とは区別されるようになる。神楽笛は大和笛とも呼ばれることから、大陸から龍笛や高麗笛が伝来する以前の日本に、すでに笛が存在していたと考えられる。事実、奈良県天理市星塚一号古墳(古墳時代後期)から横笛と思しき遺物が出土している。ただし、これは奈良時代以降の横笛の形状とは異なる点も多い。源氏物語にも種々の笛が登場するが、単に笛という場合は龍笛(竜笛)を指すことが多く、そのほかは「さくはちのふえ」(尺八)、「さうのふえ」(笙)、「こまぶえ」(高麗笛)などのように限定している。物語中で笛の登場する場面は数多く、なかでも柏木の遺品となった笛が夕霧の手を介して薫の手に渡るという形で、薫の出生の秘密に関わる重要な小道具として扱われている。このように平安時代、笛は貴族の男性にとって音楽の教養の基本とされた楽器であり、村上天皇や一条天皇は笛の名手であったといわれる。また、平敦盛や源義平にまつわる笛はいずれも「青葉の笛」と呼ばれて伝えられている。
平安中期以降の田楽は鼓や鉦を中心とするものであったが、絵巻物には笛も見られる。田楽その他の芸能が発展して室町時代にその形を整えた能においても、世阿弥の頃までには囃子の中に笛が取り入れられていたようであるが、それが現在の能管と同じものかはわかっていない。ヨーロッパのフルートは 1549年に鹿児島に到着したザビエルと共に日本に入ったことがポルトガル側の資料に残っている。
2012年4月11日水曜日
今行ってみたい博物館 『国立歴史民俗博物館』
槙谷美貴子です!みなさん、こんにちは。
歴史をさかのぼると、とても意外なことがわかったり
当時の人の暮らしが浮かび上がったりしてとても面白いですね。
槙谷美貴子は、歴史のテレビ番組を見るのがとてもすきです。
中には、歴史を経るごとに、脚色されたり、変わってしまった史実や間違って解釈されていることなど沢山あるかもしれないですが、知るほど、謎が深まったりして興味が沸いてきます。
槙谷美貴子が最近、行ってみたい歴史博物館は、千葉県佐倉市にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する、『国立歴史民俗博物館』です。
・展示品
歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっているそうです。
展示室は常設展示の第1~第5展示室と、企画展示室に分かれています。
常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色であるそうです。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されています。2011年現在の展示は以下のような構成になっているそうです。
第1展示室 原始・古代(旧石器時代-奈良時代)日本文化のあけぼの / 稲と倭人 / 前方後円墳の時代 / 律令国家 / 沖ノ島
第2展示室 中世(平安時代-安土桃山時代)王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
第3展示室 近世(江戸時代)国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
第4展示室(閉室中) 民俗(民俗展示「日本人の民俗世界」)都市の風景 / 村里の民 / 山の人生 / 海辺の民 / 南島の世界 / 再生の世界
第5展示室 近代(明治時代-昭和初期)文明開化 / 産業と開拓 / 都市と大衆の時代
第6展示室 現代(「戦争-高度経済成長」)戦争と平和/戦後の生活革命
色んなものが展示されているんですね。私が生きている今の時代の物も、いつか
歴史の一部として展示される時がやってくるんでしょうか?
以上、槙谷美貴子が行ってみたい歴史博物館の概要とお話でした。
歴史をさかのぼると、とても意外なことがわかったり
当時の人の暮らしが浮かび上がったりしてとても面白いですね。
槙谷美貴子は、歴史のテレビ番組を見るのがとてもすきです。
中には、歴史を経るごとに、脚色されたり、変わってしまった史実や間違って解釈されていることなど沢山あるかもしれないですが、知るほど、謎が深まったりして興味が沸いてきます。
槙谷美貴子が最近、行ってみたい歴史博物館は、千葉県佐倉市にある、大学共同利用機関法人人間文化研究機構が運営する、『国立歴史民俗博物館』です。
・展示品
歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっているそうです。
展示室は常設展示の第1~第5展示室と、企画展示室に分かれています。
常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色であるそうです。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されています。2011年現在の展示は以下のような構成になっているそうです。
第1展示室 原始・古代(旧石器時代-奈良時代)日本文化のあけぼの / 稲と倭人 / 前方後円墳の時代 / 律令国家 / 沖ノ島
第2展示室 中世(平安時代-安土桃山時代)王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
第3展示室 近世(江戸時代)国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
第4展示室(閉室中) 民俗(民俗展示「日本人の民俗世界」)都市の風景 / 村里の民 / 山の人生 / 海辺の民 / 南島の世界 / 再生の世界
第5展示室 近代(明治時代-昭和初期)文明開化 / 産業と開拓 / 都市と大衆の時代
第6展示室 現代(「戦争-高度経済成長」)戦争と平和/戦後の生活革命
色んなものが展示されているんですね。私が生きている今の時代の物も、いつか
歴史の一部として展示される時がやってくるんでしょうか?
以上、槙谷美貴子が行ってみたい歴史博物館の概要とお話でした。
2012年3月14日水曜日
ハリウッドがカリフォルニアで始まった歴史
こんにちは、槙谷美貴子です。
槙谷美貴子の歴史好きのブログ
歴史のニュースをGoogoleで見ていると、ブラッド・ピットが歴史好きで、
10歳になる息子さんに歴史に興味を持ってもらえるように奮闘中だそうです。
既に自分用の武器や防具などの歴史的な衣装を一通り買いそろて、これから6人の子供全員に歴史を教える計画なんだそうです。トロイにも出演したブラッド・ピットの歴史教育、槙谷美貴子も拝見してみたいです
今回は、ハリウッドの歴史について槙谷美貴子が調べました。
1903年、当時農村だったハリウッドは市制を施行しましたが、1910年にロサンゼルス市と合併しました。20世紀のはじめのこの頃、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであったそうです。
特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作者や映画関連機器製造業者、製造業者ら9社はそれぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (w:en:Motion Picture Patents Company)を1908年に設立したそうです。これに参加しない映画関連業者にはカンパニーから高額の特許料が請求されました。参加が認められなかった中小の制作者らは一斉にこれに反発しました。特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィルムを使って撮影を続行したそうです。
カンパニー側は探偵を雇って違反者を片端から摘発したため、独立系の制作者はカンパニーの目のとどかぬ土地に出かけて映画を制作しました。中でもロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影には理想的で、クリエイターが集まり始めました。また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ手がやってくることを察知して国境を越えて逃げることができました。なお、カンパニーは1912年に反トラスト法違反であると指摘され、1915年には連邦裁判所で反トラスト法違反であるとされたそうです。カンパニーは1917年には消滅し、これに前後してカンパニー参加業者らも次々にハリウッドに拠点を移したそうです。
当時アメリカ経済の中心だった東海岸は天候が悪かったそうです。当時の映画は、フィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影できませんでした。電球などの照明はありましたが、映画撮影を行うには十分な明るさを確保できませんでした。そのため映画会社は、日が長く、地中海性気候のため夏にまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州に次々に移っていきました。また、まだ民族差別の激しかった時代の出演者やクリエイター達は、出自を偽ることが多かったそうです。当時はまだ東海岸を中心にワスプがアメリカの支配層であり、イタリア系やユダヤ系などの真の出自を表に出してはスターにはなれなかったからであるそうです。
最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられました。
最初から、カリフォルニアにあったのでは無かったんですね。
調べると意外なことがわかりました。
以上、槙谷美貴子でした!
槙谷美貴子の歴史好きのブログ
歴史のニュースをGoogoleで見ていると、ブラッド・ピットが歴史好きで、
10歳になる息子さんに歴史に興味を持ってもらえるように奮闘中だそうです。
既に自分用の武器や防具などの歴史的な衣装を一通り買いそろて、これから6人の子供全員に歴史を教える計画なんだそうです。トロイにも出演したブラッド・ピットの歴史教育、槙谷美貴子も拝見してみたいです
今回は、ハリウッドの歴史について槙谷美貴子が調べました。
1903年、当時農村だったハリウッドは市制を施行しましたが、1910年にロサンゼルス市と合併しました。20世紀のはじめのこの頃、映画の中心地はニューヨーク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであったそうです。
特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作者や映画関連機器製造業者、製造業者ら9社はそれぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー (w:en:Motion Picture Patents Company)を1908年に設立したそうです。これに参加しない映画関連業者にはカンパニーから高額の特許料が請求されました。参加が認められなかった中小の制作者らは一斉にこれに反発しました。特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィルムを使って撮影を続行したそうです。
カンパニー側は探偵を雇って違反者を片端から摘発したため、独立系の制作者はカンパニーの目のとどかぬ土地に出かけて映画を制作しました。中でもロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影には理想的で、クリエイターが集まり始めました。また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ手がやってくることを察知して国境を越えて逃げることができました。なお、カンパニーは1912年に反トラスト法違反であると指摘され、1915年には連邦裁判所で反トラスト法違反であるとされたそうです。カンパニーは1917年には消滅し、これに前後してカンパニー参加業者らも次々にハリウッドに拠点を移したそうです。
当時アメリカ経済の中心だった東海岸は天候が悪かったそうです。当時の映画は、フィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影できませんでした。電球などの照明はありましたが、映画撮影を行うには十分な明るさを確保できませんでした。そのため映画会社は、日が長く、地中海性気候のため夏にまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州に次々に移っていきました。また、まだ民族差別の激しかった時代の出演者やクリエイター達は、出自を偽ることが多かったそうです。当時はまだ東海岸を中心にワスプがアメリカの支配層であり、イタリア系やユダヤ系などの真の出自を表に出してはスターにはなれなかったからであるそうです。
最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられました。
最初から、カリフォルニアにあったのでは無かったんですね。
調べると意外なことがわかりました。
以上、槙谷美貴子でした!
登録:
投稿 (Atom)