槙谷美貴子の歴史好きのブログ
槙谷美貴子です。こんにちは!
今回の『槙谷美貴子の歴史好きのブログ』では
日本蕎麦の歴史について調べました。
バの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実であるそうです。
『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載していますが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られていません(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介しています)。更に鎌倉時代に書かれた『古今著聞集』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて食膳にも据えかねる蕎麦料理が出されたことに対する素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記しています。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言えるそうです。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えて僅かに栽培する程度の雑穀だったと考えられています。なお、蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説しているが、今日における科学的根拠は無いそうです。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれています。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在します。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明しています。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。
しかしながら、江戸時代初期から文献では、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書「料理物語」には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っています。17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着しました。
蕎麦はかなり以前からあるものなんですね。
以上、槙谷美貴子が蕎麦の歴史をご紹介しました。
2012年1月23日月曜日
2011年12月9日金曜日
槙谷美貴子とカレーライスの歴史
こんにちは。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」です。今回も槙谷美貴子が気になった歴史を、ここに書かせていただきますね。宜しくお願いします。
今回は、カレーライスの歴史について。詳しい沿革があったので、引用させていただきます。
1863年(文久3年)、江戸幕府の遣欧使節の三宅秀が、船中でインド人が食事する様子を見て「飯の上へ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と日誌に記している。
1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。
1872年(明治5年)、カレーライスのレシピを記した本「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。
1873年(明治6年)、陸軍(幼年生徒隊)食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の洋食食堂「風月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。
1908年(明治41年)、帝国海軍が配布した「海軍割烹術参考書」にカレイライスのレシピが載る。
1910年(明治43年)、帝国陸軍が配布した「軍隊調理法」にカレー汁(およびライスカレー)のレシピが載る。
1924年(大正13年)、東京・神田の簡易食堂「須田町食堂」が、初めて廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せる。
当時の大卒初任給70円、日雇労働者日当1円63銭
1926年(大正15年)、「浦上商店」(現:ハウス食品)が、カレールウ「即席ホームカレー」を発売。翌年、商品名を「即席ハウスカレー」に変更。
1927年(昭和2年)、東京の「新宿中村屋」「資生堂パーラー」が、高級カレーライス(80銭、50銭)をメニューに載せる。
1929年(昭和4年)、大阪・梅田の「阪急百貨店」の大食堂が、廉価(25銭)でライスカレーを販売。
1930年(昭和5年)、山崎峯次郎(エスビー食品の創業者)が、「ヒドリ印カレー粉」を発売。
1931年(昭和6年)、「C&Bカレー事件」発生。イギリスのクロス・アンド・ブラックウェル (C&B) 社のカレー粉は、品質がよいとされていたが値段が高く、増量材を混ぜたり中身を国産品に詰め替えた安価な偽物が出回った。これは日英間の国際問題にまで発展し、偽造グループが逮捕された。
1941年(昭和16年) - 1945年(昭和20年)、戦争による食料統制のため、軍用以外のカレー粉製造・販売が禁止された。また、陸軍ではライスカレーのことを「辛味入汁掛飯」と言い換えるようになった。
1946年(昭和21年)、終戦によりカレー粉の製造・販売が再開された。
1949年(昭和24年)、浦上商店がカレールウ「即席ハウスカレー」の製造を再開。
1954年(昭和29年)、エスビー食品が即席カレールウ分野に進出。
1960年(昭和35年)、ハウス食品工業株式会社(旧浦上商店)がカレールウ「ハウス印度カレー」を発売。以後、インスタントカレールウの主流は固形タイプになる。
1969年(昭和44年)、大塚食品、初のレトルトカレーソース「ボンカレー」を発売。
1982年(昭和57年)、全国学校栄養士協議会が1月22日を「カレーの日」と決め、全国の小中学校で一斉に「カレー給食」を出す。以後この日が、「カレーの日」とされている。
カレーライスの歴史、面白いですね。
何だかカレーが食べたくなってきました(笑)それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今回は、カレーライスの歴史について。詳しい沿革があったので、引用させていただきます。
1863年(文久3年)、江戸幕府の遣欧使節の三宅秀が、船中でインド人が食事する様子を見て「飯の上へ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と日誌に記している。
1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。
1872年(明治5年)、カレーライスのレシピを記した本「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。
1873年(明治6年)、陸軍(幼年生徒隊)食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の洋食食堂「風月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。
1908年(明治41年)、帝国海軍が配布した「海軍割烹術参考書」にカレイライスのレシピが載る。
1910年(明治43年)、帝国陸軍が配布した「軍隊調理法」にカレー汁(およびライスカレー)のレシピが載る。
1924年(大正13年)、東京・神田の簡易食堂「須田町食堂」が、初めて廉価(8銭)でカレーライスをメニューに載せる。
当時の大卒初任給70円、日雇労働者日当1円63銭
1926年(大正15年)、「浦上商店」(現:ハウス食品)が、カレールウ「即席ホームカレー」を発売。翌年、商品名を「即席ハウスカレー」に変更。
1927年(昭和2年)、東京の「新宿中村屋」「資生堂パーラー」が、高級カレーライス(80銭、50銭)をメニューに載せる。
1929年(昭和4年)、大阪・梅田の「阪急百貨店」の大食堂が、廉価(25銭)でライスカレーを販売。
1930年(昭和5年)、山崎峯次郎(エスビー食品の創業者)が、「ヒドリ印カレー粉」を発売。
1931年(昭和6年)、「C&Bカレー事件」発生。イギリスのクロス・アンド・ブラックウェル (C&B) 社のカレー粉は、品質がよいとされていたが値段が高く、増量材を混ぜたり中身を国産品に詰め替えた安価な偽物が出回った。これは日英間の国際問題にまで発展し、偽造グループが逮捕された。
1941年(昭和16年) - 1945年(昭和20年)、戦争による食料統制のため、軍用以外のカレー粉製造・販売が禁止された。また、陸軍ではライスカレーのことを「辛味入汁掛飯」と言い換えるようになった。
1946年(昭和21年)、終戦によりカレー粉の製造・販売が再開された。
1949年(昭和24年)、浦上商店がカレールウ「即席ハウスカレー」の製造を再開。
1954年(昭和29年)、エスビー食品が即席カレールウ分野に進出。
1960年(昭和35年)、ハウス食品工業株式会社(旧浦上商店)がカレールウ「ハウス印度カレー」を発売。以後、インスタントカレールウの主流は固形タイプになる。
1969年(昭和44年)、大塚食品、初のレトルトカレーソース「ボンカレー」を発売。
1982年(昭和57年)、全国学校栄養士協議会が1月22日を「カレーの日」と決め、全国の小中学校で一斉に「カレー給食」を出す。以後この日が、「カレーの日」とされている。
カレーライスの歴史、面白いですね。
何だかカレーが食べたくなってきました(笑)それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年12月5日月曜日
時計の歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です、こんにちは!「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」、今日も始めさせていただきますね!宜しくお願いします!
今回は時計の歴史についてお話させていただきますね。
現在使われている六十進法の時間単位は、紀元前約2000年にシュメールで考えられたものだそうです。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源と言われていますね。彼らはルクソール近郊にあるアメン=ラーの地でおそらく最初に使われたとされる水時計も作っているのだとか。水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれをクレプシドラの名で呼んでいたようです。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が発明されていたそうです。この水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものと考えられているようですね。その他、中国、日本、イギリス、イラクではロウソク時計も使われていて、インド、チベット、一部ヨーロッパでは日時計が広く使われていたそうです。他に、砂時計も使われていたようですね。初期の時計は日時計が多く、曇りや夜には使うことができなかったのだそうです。最もよく使われた日時計はグノモンと呼ばれる形のものだったそうですが、あくまで日時計なので緯度で値が変化したみたいですね。
時計に脱進機(歯車を一定方向に回す装置)を初めて用いたのは8世紀の中国で、水時計にギアとおもりを組み込んだのは11世紀のイスラム教徒だったそうです。脱進機に王冠歯車を用いたのは14世紀のヨーロッパ、16世紀にゼンマイ式の懐中時計ができ、18世紀に振り子時計ができるまで長い間使われていたのだとか。20世紀になると、クオーツ時計、さらには原子時計へと置き換わっていきますね。クォーツ時計は作るのが簡単で正確なので、腕時計によく使われています。原子時計はこれよりもはるかに正確なので、国際標準時間「国際原子時」をきめるのに使われているのだとか。原子時計は協定世界時にも使われているようですね。
時計について、面白いですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今回は時計の歴史についてお話させていただきますね。
現在使われている六十進法の時間単位は、紀元前約2000年にシュメールで考えられたものだそうです。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源と言われていますね。彼らはルクソール近郊にあるアメン=ラーの地でおそらく最初に使われたとされる水時計も作っているのだとか。水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれをクレプシドラの名で呼んでいたようです。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が発明されていたそうです。この水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものと考えられているようですね。その他、中国、日本、イギリス、イラクではロウソク時計も使われていて、インド、チベット、一部ヨーロッパでは日時計が広く使われていたそうです。他に、砂時計も使われていたようですね。初期の時計は日時計が多く、曇りや夜には使うことができなかったのだそうです。最もよく使われた日時計はグノモンと呼ばれる形のものだったそうですが、あくまで日時計なので緯度で値が変化したみたいですね。
時計に脱進機(歯車を一定方向に回す装置)を初めて用いたのは8世紀の中国で、水時計にギアとおもりを組み込んだのは11世紀のイスラム教徒だったそうです。脱進機に王冠歯車を用いたのは14世紀のヨーロッパ、16世紀にゼンマイ式の懐中時計ができ、18世紀に振り子時計ができるまで長い間使われていたのだとか。20世紀になると、クオーツ時計、さらには原子時計へと置き換わっていきますね。クォーツ時計は作るのが簡単で正確なので、腕時計によく使われています。原子時計はこれよりもはるかに正確なので、国際標準時間「国際原子時」をきめるのに使われているのだとか。原子時計は協定世界時にも使われているようですね。
時計について、面白いですね。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年11月22日火曜日
宇宙の歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です結構お久しぶりですね
今日の槙谷美貴子の歴史ブログは宇宙の歴史と槙谷美貴子というわけで、宇宙の歴史と槙谷美貴子について説明していきます
宇宙の年表(うちゅうのねんぴょう)は宇宙で起きた出来事の年表であり、ビッグバン理論を中心に他の科学理論も交えてまとめたものである。
宇宙の歴史、宇宙の展開、宇宙の進化などとも表現されるものである。
観測によれば、宇宙はおよそ137億年前[1]に誕生した。それ以来宇宙は3つの段階を経過してきている。未だに解明の進んでいない最初期宇宙は今日地上にある加速器で生じさせられるよりも高エネルギーの素粒子からなる高温の状態であり、またほんの一瞬であったとされている。そのためこの段階の基礎的特徴はインフレーション理論などにおいて分析されているが、大部分は推測からなりたっている。
次の段階は初期宇宙と呼ばれ、高エネルギー物理学により解明されてきている。これによれば、はじめに陽子、電子、中性子そして原子核、原子が生成された。中性水素[2]の生成にともない、宇宙マイクロ波背景が放射された。
そのような段階を経て、最初の恒星とクエーサー、銀河、銀河団、超銀河団は形成された。
宇宙の終焉については、さまざまな理論がある。
最初期の宇宙に関係する概念はいきおい推論がちになる。現在のところこの時代に新たなる知見をもたらすのに十分な規模の加速器による実験は行われていない。多くのシナリオ案は根本の部分に意見のあわない部分がある。例えば
ハートル=ホーキングの境界条件(en:Hartle-Hawking state)
弦風景(en:String theory landscape)
ブレーンインフレーション
弦ガス宇宙論(en:String gas cosmology)
エキピロティック宇宙論(en:Ekpyrotic)
など。補完し合う理論もあるがそうではない理論もある。
槙谷美貴子としては宇宙のことはよくわかりませんね(^ω^;
今日の槙谷美貴子の歴史ブログは宇宙の歴史と槙谷美貴子というわけで、宇宙の歴史と槙谷美貴子について説明していきます
宇宙の年表(うちゅうのねんぴょう)は宇宙で起きた出来事の年表であり、ビッグバン理論を中心に他の科学理論も交えてまとめたものである。
宇宙の歴史、宇宙の展開、宇宙の進化などとも表現されるものである。
観測によれば、宇宙はおよそ137億年前[1]に誕生した。それ以来宇宙は3つの段階を経過してきている。未だに解明の進んでいない最初期宇宙は今日地上にある加速器で生じさせられるよりも高エネルギーの素粒子からなる高温の状態であり、またほんの一瞬であったとされている。そのためこの段階の基礎的特徴はインフレーション理論などにおいて分析されているが、大部分は推測からなりたっている。
次の段階は初期宇宙と呼ばれ、高エネルギー物理学により解明されてきている。これによれば、はじめに陽子、電子、中性子そして原子核、原子が生成された。中性水素[2]の生成にともない、宇宙マイクロ波背景が放射された。
そのような段階を経て、最初の恒星とクエーサー、銀河、銀河団、超銀河団は形成された。
宇宙の終焉については、さまざまな理論がある。
最初期の宇宙に関係する概念はいきおい推論がちになる。現在のところこの時代に新たなる知見をもたらすのに十分な規模の加速器による実験は行われていない。多くのシナリオ案は根本の部分に意見のあわない部分がある。例えば
ハートル=ホーキングの境界条件(en:Hartle-Hawking state)
弦風景(en:String theory landscape)
ブレーンインフレーション
弦ガス宇宙論(en:String gas cosmology)
エキピロティック宇宙論(en:Ekpyrotic)
など。補完し合う理論もあるがそうではない理論もある。
槙谷美貴子としては宇宙のことはよくわかりませんね(^ω^;
2011年10月25日火曜日
現代社会に欠かせない携帯電話
槙谷美貴子です。
皆様、こんにちは。
今日は、現代社会には欠かせない誰しもが持っている「携帯電話」の歴史を
調べてみました。
第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用したモトローラ製の「Walkie Talkie」が、前身といわれる。しかしこれは、回線を使用していないトランシーバーである。
携帯電話の構想は、電話機が考案されて間もない頃からあった。電波を使用して無線で通信でき、かつ人間同士が音声にて会話することが夢として描かれていた。
モールス符号を用いる無線電信機は携帯電話の元になる技術だが、実用化されても爆発的に普及するようになるものだとはこの時点では考えられていなかった。
また、携帯できる電話を開発する具体的な研究は古くから行われてきたが、電波のノイズの問題やバッテリーの問題、また通信速度などの多くの問題により電話機が非常に大型になってしまうため、実現は難しかった。
1960年代になると、両手で持ちながら会話できる程度まで小さくすることが可能となった。しかし、短時間の通話でも疲れてしまうほどに重かった。
1970年代になると頑張れば片手で持てる程度の大きさまで縮小することができた。これは1970年に大阪で開催された日本万国博覧会にワイヤレスホンとして出展された。
これは、今で言うコードレスフォンである。1980年代になると事業として成立するようになり、一部の先進国で車載電話機(自動車電話)として携帯電話機の販売、及びサービスが開始された。この頃は固定電話機と比較すると導入価格、通信費用は共に数十倍であり、また通信エリアも都市部に限られていたため、よほどの理由が無ければ導入できなかった。1978年、“AT&T”と「モトローラ」に実用化実験許可がおりる。1979年、日本において世界で初めて実用化される。
1981年、バーレーンとスカンディナヴィアで実用化。遅れをとったアメリカもレーガン大統領へのモトローラからの直訴により1981年、実用化がなされた。
1990年代になると普及が進み、本体に液晶ディスプレイが搭載され始めた。1990年代半ばには通信方式がアナログからデジタルへと移行し、着信音に好みの音楽が設定できる着信メロディや、ポケットベルと連帯したメッセージサービスが使用できるようになった。
1990年代後半にはインターネット網への接続が可能となり、通信速度が向上し、画像やJavaを使用したゲームなどの利用が可能となった。
2000年代に入ると第三世代携帯電話が登場し、テレビ電話が可能となったほか、パソコンと接続して高速なデータ通信が行えるようになった。
また発展途上国でも爆発的に普及し始め、英調査会社、“Informa Telecoms & Media”の2007年11月29日(英国時間)の発表によれば、世界全体での普及率が5割に達した。
槙谷美貴子が使用している携帯はiphoneなのですが、昔は携帯電話が作られることさえ想像できなかったのに、今となってはこんな便利な機能がついた携帯電話が作られていますもんね。
iphoneは、色々と便利な機能がありすぎて、プライベートがないなぁと思う時が時たまありますが(笑)まぁこれからどんな携帯電話が作られていくのか楽しみですね。
槙谷美貴子
皆様、こんにちは。
今日は、現代社会には欠かせない誰しもが持っている「携帯電話」の歴史を
調べてみました。
第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用したモトローラ製の「Walkie Talkie」が、前身といわれる。しかしこれは、回線を使用していないトランシーバーである。
携帯電話の構想は、電話機が考案されて間もない頃からあった。電波を使用して無線で通信でき、かつ人間同士が音声にて会話することが夢として描かれていた。
モールス符号を用いる無線電信機は携帯電話の元になる技術だが、実用化されても爆発的に普及するようになるものだとはこの時点では考えられていなかった。
また、携帯できる電話を開発する具体的な研究は古くから行われてきたが、電波のノイズの問題やバッテリーの問題、また通信速度などの多くの問題により電話機が非常に大型になってしまうため、実現は難しかった。
1960年代になると、両手で持ちながら会話できる程度まで小さくすることが可能となった。しかし、短時間の通話でも疲れてしまうほどに重かった。
1970年代になると頑張れば片手で持てる程度の大きさまで縮小することができた。これは1970年に大阪で開催された日本万国博覧会にワイヤレスホンとして出展された。
これは、今で言うコードレスフォンである。1980年代になると事業として成立するようになり、一部の先進国で車載電話機(自動車電話)として携帯電話機の販売、及びサービスが開始された。この頃は固定電話機と比較すると導入価格、通信費用は共に数十倍であり、また通信エリアも都市部に限られていたため、よほどの理由が無ければ導入できなかった。1978年、“AT&T”と「モトローラ」に実用化実験許可がおりる。1979年、日本において世界で初めて実用化される。
1981年、バーレーンとスカンディナヴィアで実用化。遅れをとったアメリカもレーガン大統領へのモトローラからの直訴により1981年、実用化がなされた。
1990年代になると普及が進み、本体に液晶ディスプレイが搭載され始めた。1990年代半ばには通信方式がアナログからデジタルへと移行し、着信音に好みの音楽が設定できる着信メロディや、ポケットベルと連帯したメッセージサービスが使用できるようになった。
1990年代後半にはインターネット網への接続が可能となり、通信速度が向上し、画像やJavaを使用したゲームなどの利用が可能となった。
2000年代に入ると第三世代携帯電話が登場し、テレビ電話が可能となったほか、パソコンと接続して高速なデータ通信が行えるようになった。
また発展途上国でも爆発的に普及し始め、英調査会社、“Informa Telecoms & Media”の2007年11月29日(英国時間)の発表によれば、世界全体での普及率が5割に達した。
槙谷美貴子が使用している携帯はiphoneなのですが、昔は携帯電話が作られることさえ想像できなかったのに、今となってはこんな便利な機能がついた携帯電話が作られていますもんね。
iphoneは、色々と便利な機能がありすぎて、プライベートがないなぁと思う時が時たまありますが(笑)まぁこれからどんな携帯電話が作られていくのか楽しみですね。
槙谷美貴子
2011年10月17日月曜日
槙谷美貴子と掃除機の歴史
槙谷美貴子です、こんにちは。今回槙谷美貴子が調べてきたのは、掃除機の歴史についてです。よろしくお願いします。
世界最初の真空掃除機は、1868年にシカゴのアイヴス・マガフィー(Ives W. McGaffey)によって発明されたみたいですね。原理は、手でレバーを引いて真空を作り出し、ノズルからゴミを吸い取って容器に溜めるという簡単なものだったそうです。彼は1869年6月8日にこの特許を取得し、ボストンにあるカーペット清掃会社に売り込むことに成功したのだとか。こうして誕生した世界最初の真空掃除機がシカゴとボストンで発売されたんですが、当時としては$25もする高価なものであり、ノズルをゴミに当てながらいちいち手でレバーを引くのが面倒という欠点のため、やがて市場から姿を消していったのだそうです。
1876年、ミシガン州グランドラピッズのメルヴィル・ビッセルは妻のためにじゅうたんの上のおが屑を掃除するための掃除機を作りました。間もなく、Bissell Carpet Sweepers として製品化。メルヴィルが1889年に亡くなると、妻のアンナが社長となり、当時最も強いビジネスウーマンと呼ばれるようになったのだそうです。1899年には電動機駆動の掃除機をジョン・サーマンが発明します。Bissell社は今も掃除機を含む掃除用品のメーカーとして存続しているそうですね。
最初の電気式真空掃除機は、1901年にイギリスのヒューバート・セシル・ブース(Hubert Cecil Booth)が発明したもので、布フィルターを備えていたのだそうです。彼は列車の座席から塵を吹き飛ばす装置のデモンストレーションを目にし、塵を吸い取った方がずっと役立つと考えたんですね。そのアイデアを試すため、彼はレストランの椅子の上にハンカチを広げ、それを自分の口で吸いつけ、さらに塵を吸い付けてみたのだとか。塵がハンカチの下面に集まったのを見て、彼はそのアイデアがうまくいくと確信したのだそうです。ブースは Puffing Billy と名付けた大きな装置を作ります。石油を使った内燃機関を動力源としていたが、後に電動機を使うようになったそうですね。掃除すべき建物の前まで馬で引いていたみたいです。
そうやって電気式真空掃除機が様々な改良を加えられて、今私たちのよく知る掃除機になったんですね。
それでは今日はこの辺で。失礼します。槙谷美貴子でした。
世界最初の真空掃除機は、1868年にシカゴのアイヴス・マガフィー(Ives W. McGaffey)によって発明されたみたいですね。原理は、手でレバーを引いて真空を作り出し、ノズルからゴミを吸い取って容器に溜めるという簡単なものだったそうです。彼は1869年6月8日にこの特許を取得し、ボストンにあるカーペット清掃会社に売り込むことに成功したのだとか。こうして誕生した世界最初の真空掃除機がシカゴとボストンで発売されたんですが、当時としては$25もする高価なものであり、ノズルをゴミに当てながらいちいち手でレバーを引くのが面倒という欠点のため、やがて市場から姿を消していったのだそうです。
1876年、ミシガン州グランドラピッズのメルヴィル・ビッセルは妻のためにじゅうたんの上のおが屑を掃除するための掃除機を作りました。間もなく、Bissell Carpet Sweepers として製品化。メルヴィルが1889年に亡くなると、妻のアンナが社長となり、当時最も強いビジネスウーマンと呼ばれるようになったのだそうです。1899年には電動機駆動の掃除機をジョン・サーマンが発明します。Bissell社は今も掃除機を含む掃除用品のメーカーとして存続しているそうですね。
最初の電気式真空掃除機は、1901年にイギリスのヒューバート・セシル・ブース(Hubert Cecil Booth)が発明したもので、布フィルターを備えていたのだそうです。彼は列車の座席から塵を吹き飛ばす装置のデモンストレーションを目にし、塵を吸い取った方がずっと役立つと考えたんですね。そのアイデアを試すため、彼はレストランの椅子の上にハンカチを広げ、それを自分の口で吸いつけ、さらに塵を吸い付けてみたのだとか。塵がハンカチの下面に集まったのを見て、彼はそのアイデアがうまくいくと確信したのだそうです。ブースは Puffing Billy と名付けた大きな装置を作ります。石油を使った内燃機関を動力源としていたが、後に電動機を使うようになったそうですね。掃除すべき建物の前まで馬で引いていたみたいです。
そうやって電気式真空掃除機が様々な改良を加えられて、今私たちのよく知る掃除機になったんですね。
それでは今日はこの辺で。失礼します。槙谷美貴子でした。
2011年10月6日木曜日
たばこの歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」、今日も始めさせていただきます。
今回はたばこの歴史についてです。
タバコはナス科タバコ属 (Nicotiana) の一年草で、大規模に栽培されるものは N. tabacum と N. rustica の2種に限られているのだそうです。N. tabacum はニコチン含有量が高いため、商業的に価値があるのはこちらなのだとか。もう一方のN. rustica は寒さに強いとされています。この2種の他にもこれまでに全部で66種が確認されておりまして、そのうち45種が南北アメリカ大陸とその周辺部に生育していたのだそう。そのことから、タバコ属植物誕生の地はアメリカなのではと考えられているようです。
1492年、“黄金の国”を目指したコロンブスが、新大陸(=古代アメリカ大陸)のカリブ海沖にある諸島=西インド諸島の1つであるグアハニ島に上陸し、先住民のアラワク族に友好のしるしとして鏡とガラス玉を贈りました。それに対しアラワク族は珍しい食物や果物などと一緒に香り高い乾燥した葉=「たばこ」の葉を贈ったことが、ヨーロッパの人間が「たばこ」に接した最初の瞬間といわれているのだそうです。アラワク族がたばこを喫煙しているところを発見したのも、このときだったのだとか。
そこから、ヨーロッパに広まり後に全世界に広まったのだそうです。
たばこの歴史、調べてみると面白いですね。
広まった経緯なども色々あるみたいですから、また機会があればより詳しく調べてみたいと思います。
それでは!槙谷美貴子でした。
今回はたばこの歴史についてです。
タバコはナス科タバコ属 (Nicotiana) の一年草で、大規模に栽培されるものは N. tabacum と N. rustica の2種に限られているのだそうです。N. tabacum はニコチン含有量が高いため、商業的に価値があるのはこちらなのだとか。もう一方のN. rustica は寒さに強いとされています。この2種の他にもこれまでに全部で66種が確認されておりまして、そのうち45種が南北アメリカ大陸とその周辺部に生育していたのだそう。そのことから、タバコ属植物誕生の地はアメリカなのではと考えられているようです。
1492年、“黄金の国”を目指したコロンブスが、新大陸(=古代アメリカ大陸)のカリブ海沖にある諸島=西インド諸島の1つであるグアハニ島に上陸し、先住民のアラワク族に友好のしるしとして鏡とガラス玉を贈りました。それに対しアラワク族は珍しい食物や果物などと一緒に香り高い乾燥した葉=「たばこ」の葉を贈ったことが、ヨーロッパの人間が「たばこ」に接した最初の瞬間といわれているのだそうです。アラワク族がたばこを喫煙しているところを発見したのも、このときだったのだとか。
そこから、ヨーロッパに広まり後に全世界に広まったのだそうです。
たばこの歴史、調べてみると面白いですね。
広まった経緯なども色々あるみたいですから、また機会があればより詳しく調べてみたいと思います。
それでは!槙谷美貴子でした。
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