槙谷美貴子です。こんにちは。「槙谷美貴子の歴史好きのブログ」、今日も始めさせていただきます。
今回はたばこの歴史についてです。
タバコはナス科タバコ属 (Nicotiana) の一年草で、大規模に栽培されるものは N. tabacum と N. rustica の2種に限られているのだそうです。N. tabacum はニコチン含有量が高いため、商業的に価値があるのはこちらなのだとか。もう一方のN. rustica は寒さに強いとされています。この2種の他にもこれまでに全部で66種が確認されておりまして、そのうち45種が南北アメリカ大陸とその周辺部に生育していたのだそう。そのことから、タバコ属植物誕生の地はアメリカなのではと考えられているようです。
1492年、“黄金の国”を目指したコロンブスが、新大陸(=古代アメリカ大陸)のカリブ海沖にある諸島=西インド諸島の1つであるグアハニ島に上陸し、先住民のアラワク族に友好のしるしとして鏡とガラス玉を贈りました。それに対しアラワク族は珍しい食物や果物などと一緒に香り高い乾燥した葉=「たばこ」の葉を贈ったことが、ヨーロッパの人間が「たばこ」に接した最初の瞬間といわれているのだそうです。アラワク族がたばこを喫煙しているところを発見したのも、このときだったのだとか。
そこから、ヨーロッパに広まり後に全世界に広まったのだそうです。
たばこの歴史、調べてみると面白いですね。
広まった経緯なども色々あるみたいですから、また機会があればより詳しく調べてみたいと思います。
それでは!槙谷美貴子でした。
2011年10月6日木曜日
2011年9月30日金曜日
槙谷美貴子と伝書鳩の歴史
こんにちは槙谷美貴子です。
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ 」では
槙谷美貴子が気になった歴史のことなどを調べて
お話するブログです。
伝書鳩の歴史は非常に古く、紀元前約5000年のシュメールの粘土板にも使用をうかがわせる記述があるという。確実な記録では、紀元前約3000年のエジプトで、漁船が漁況を知らせるために利用していたらしい。このころのエジプトでは、様々な鳥で通信することが試みられたが、人によく馴れて飼いやすく、飛翔能力、帰巣本能に優れるカワラバト(ドバト)が選ばれ、定着したようだ。ただ、この当時ハトは主に食用として飼育されており、伝書鳩としてはあまり広く使われていなかった。また、ギリシャのポリス間の通信に使われた。特に各ポリス代表が参加して行われた競技会の覇者は、鳩の足に赤いリボンを結び付け、故郷への勝利と栄誉の便りとした。ローマ帝国で通信手段として広く使われ、各地に広まった。
ローマ帝国以降は主に軍事用の通信手段として広く使われ、産業革命期以降に最盛期を迎えた。第二次世界大戦時のイギリス軍は約50万羽の軍用鳩を飼っていたという。第二次大戦中は伝書鳩が広く使われたため、ドイツ軍は対抗手段として、タカを使って伝書鳩を襲わせた。また、近代になって報道機関が発達すると、通信用に使われた。例えば、1850年のロイターの創業時は伝書鳩が主な通信手段だった。この当時、最速の通信手段は伝書鳩だったのである。
日本には、カワラバトは飛鳥時代に渡来していたものの、伝書鳩として利用されるのは江戸時代になってからである。この伝書鳩は輸入されたもので、京阪神地方で商業用の連絡に使われていた。1783年に大阪の相場師・相屋又八が堂島の米相場の情報を伝えるために伝書鳩を使ったのを咎められ、幕府に処罰された。明治時代に入ると、軍事用として伝書鳩が本格的に様々な系統の品種が輸入され、飼育されていった。有名な系統に南部伯爵が導入した南部系などが現存している。それと同じくして、民間でも報道用・趣味として飼育することが増えていった。新聞各社が集まる東京の有楽町には、屋上に鳩小屋が作られるほどだった。第二次世界大戦に入ると、食糧難・軍用に献納されるなどで民間の飼育者は一時的に減ったが、戦後になると飼鳩は若年層の間でブームとなり、1964年の東京オリンピックの開会式での放鳩行事の影響もあり、1969年ピークに達した。この年の年間脚環登録羽数は400万羽弱に達した。その後、漫画「レース鳩0777(アラシ)」等の影響で一時的なブームがあったものの、漸減傾向にある。また、1970年代を境に、鳩レースの平均帰還率は明らかな低下傾向を辿り、数千羽規模の登録レースでも、最終レースを待たず全滅することが各地で頻発している。それは日本に特有の現象で、原因の探求がされているものの、はっきりしたことはわかっていない。主に猛禽類の大増殖説・携帯電話の電磁波影響説(1990年代後半からいわれるようになってきた)・育種上外来種偏重かつスピード重視の改良が横行した結果の3つが言われている。また、新型インフルエンザ発生地域のレース自粛等、新しい問題も起きており、日本の飼鳩環境はますます厳しくなっている。
1983年、英国で少女が誘拐され、犯人が身代金の受け渡しにダイヤモンドを伝書鳩に付けて飛ばすように指定した事件が発生した。しかし、この伝書鳩は王立伝書鳩協会の脚環を装着したままだったため、標識から身元が割れた犯人は逮捕され、人質の少女は無事保護されたそうです。
この事件で犯人逮捕の有力な手がかりとなった伝書鳩は、その功績を認められ、同協会が引き取り、末永く幸せな生涯を全うしたそうです。
鳩の帰巣本能はすごいですね。確実な記録では、紀元前約3000年のエジプトからとは……驚きました。
日本では江戸時代からなんですね。こんなに古いとは思いもしませんでした。興味深いですね。
それでは今回はこの辺で。
「槙谷美貴子の歴史好きのブログ 」では
槙谷美貴子が気になった歴史のことなどを調べて
お話するブログです。
伝書鳩の歴史は非常に古く、紀元前約5000年のシュメールの粘土板にも使用をうかがわせる記述があるという。確実な記録では、紀元前約3000年のエジプトで、漁船が漁況を知らせるために利用していたらしい。このころのエジプトでは、様々な鳥で通信することが試みられたが、人によく馴れて飼いやすく、飛翔能力、帰巣本能に優れるカワラバト(ドバト)が選ばれ、定着したようだ。ただ、この当時ハトは主に食用として飼育されており、伝書鳩としてはあまり広く使われていなかった。また、ギリシャのポリス間の通信に使われた。特に各ポリス代表が参加して行われた競技会の覇者は、鳩の足に赤いリボンを結び付け、故郷への勝利と栄誉の便りとした。ローマ帝国で通信手段として広く使われ、各地に広まった。
ローマ帝国以降は主に軍事用の通信手段として広く使われ、産業革命期以降に最盛期を迎えた。第二次世界大戦時のイギリス軍は約50万羽の軍用鳩を飼っていたという。第二次大戦中は伝書鳩が広く使われたため、ドイツ軍は対抗手段として、タカを使って伝書鳩を襲わせた。また、近代になって報道機関が発達すると、通信用に使われた。例えば、1850年のロイターの創業時は伝書鳩が主な通信手段だった。この当時、最速の通信手段は伝書鳩だったのである。
日本には、カワラバトは飛鳥時代に渡来していたものの、伝書鳩として利用されるのは江戸時代になってからである。この伝書鳩は輸入されたもので、京阪神地方で商業用の連絡に使われていた。1783年に大阪の相場師・相屋又八が堂島の米相場の情報を伝えるために伝書鳩を使ったのを咎められ、幕府に処罰された。明治時代に入ると、軍事用として伝書鳩が本格的に様々な系統の品種が輸入され、飼育されていった。有名な系統に南部伯爵が導入した南部系などが現存している。それと同じくして、民間でも報道用・趣味として飼育することが増えていった。新聞各社が集まる東京の有楽町には、屋上に鳩小屋が作られるほどだった。第二次世界大戦に入ると、食糧難・軍用に献納されるなどで民間の飼育者は一時的に減ったが、戦後になると飼鳩は若年層の間でブームとなり、1964年の東京オリンピックの開会式での放鳩行事の影響もあり、1969年ピークに達した。この年の年間脚環登録羽数は400万羽弱に達した。その後、漫画「レース鳩0777(アラシ)」等の影響で一時的なブームがあったものの、漸減傾向にある。また、1970年代を境に、鳩レースの平均帰還率は明らかな低下傾向を辿り、数千羽規模の登録レースでも、最終レースを待たず全滅することが各地で頻発している。それは日本に特有の現象で、原因の探求がされているものの、はっきりしたことはわかっていない。主に猛禽類の大増殖説・携帯電話の電磁波影響説(1990年代後半からいわれるようになってきた)・育種上外来種偏重かつスピード重視の改良が横行した結果の3つが言われている。また、新型インフルエンザ発生地域のレース自粛等、新しい問題も起きており、日本の飼鳩環境はますます厳しくなっている。
1983年、英国で少女が誘拐され、犯人が身代金の受け渡しにダイヤモンドを伝書鳩に付けて飛ばすように指定した事件が発生した。しかし、この伝書鳩は王立伝書鳩協会の脚環を装着したままだったため、標識から身元が割れた犯人は逮捕され、人質の少女は無事保護されたそうです。
この事件で犯人逮捕の有力な手がかりとなった伝書鳩は、その功績を認められ、同協会が引き取り、末永く幸せな生涯を全うしたそうです。
鳩の帰巣本能はすごいですね。確実な記録では、紀元前約3000年のエジプトからとは……驚きました。
日本では江戸時代からなんですね。こんなに古いとは思いもしませんでした。興味深いですね。
それでは今回はこの辺で。
2011年9月9日金曜日
化粧の歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です!こんにちは。
今日は化粧の歴史について、調べたので、槙谷美貴子がお話させていただきます。
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が塗られていることから、顔に赤土を塗ることが当時の風習であり日本の化粧の始まりで、魔除けのために顔に紅殻(ベンガラ:酸化鉄)を塗る“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進入を防ぐ色とされていたそうですね。
その後、6世紀初頭に始まった遣隋使、遣唐使や中国や朝鮮からの渡来人などにより文字を筆頭に種々の文化、文物の伝来と共に身だしなみ、化粧品、化粧法なども伝えられて魔除けから日本の伝統化粧の始まりとなりましたのだそうです。
化粧は最初、埴輪の顔面に塗られたことから始まったんですね。口紅や頬紅で赤が多いのにも納得がいきました。
化粧の歴史、面白いです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今日は化粧の歴史について、調べたので、槙谷美貴子がお話させていただきます。
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が塗られていることから、顔に赤土を塗ることが当時の風習であり日本の化粧の始まりで、魔除けのために顔に紅殻(ベンガラ:酸化鉄)を塗る“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進入を防ぐ色とされていたそうですね。
その後、6世紀初頭に始まった遣隋使、遣唐使や中国や朝鮮からの渡来人などにより文字を筆頭に種々の文化、文物の伝来と共に身だしなみ、化粧品、化粧法なども伝えられて魔除けから日本の伝統化粧の始まりとなりましたのだそうです。
化粧は最初、埴輪の顔面に塗られたことから始まったんですね。口紅や頬紅で赤が多いのにも納得がいきました。
化粧の歴史、面白いです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年8月29日月曜日
槙谷美貴子と口紅の歴史
槙谷美貴子です。こんにちは。
前回のマニキュアに引き続き、今回は口紅の歴史について槙谷美貴子が調べてきました。
口紅(くちべに、lipstick)は、人がメイクアップをする際、唇を彩るために使われる化粧品の一種。多くは、スティック状である。
約7万年前に、悪魔などが口や耳などの穴から進入してこないよう、赤色の物を塗る習慣があったのが始まりと言われている。これは、出土した当時の人骨の口などに赤色が付着している痕跡があったため判明した。別の説では、紀元前3000年頃のエジプト人が使用したと思われる口紅が発見され、紀元前1200年頃のエジプトで、人々が目や唇に化粧している絵画も発見されている。
■口紅の効果
現代において、化粧のうちでも重要な要素とされ、色、質感などが重要である。光沢も重要であり、光彩を放つパールやラメが混入されていることがある。
保湿機能などが付加され、冬期の乾燥した環境下でも使用できる製品が開発されている。
夏期には紫外線防止効果のあるものも選ばれる。
今は口紅よりリップを使っている女性の方が多いような気がしますが。。
どうなんでしょうかね?
槙谷美貴子
前回のマニキュアに引き続き、今回は口紅の歴史について槙谷美貴子が調べてきました。
口紅(くちべに、lipstick)は、人がメイクアップをする際、唇を彩るために使われる化粧品の一種。多くは、スティック状である。
約7万年前に、悪魔などが口や耳などの穴から進入してこないよう、赤色の物を塗る習慣があったのが始まりと言われている。これは、出土した当時の人骨の口などに赤色が付着している痕跡があったため判明した。別の説では、紀元前3000年頃のエジプト人が使用したと思われる口紅が発見され、紀元前1200年頃のエジプトで、人々が目や唇に化粧している絵画も発見されている。
■口紅の効果
現代において、化粧のうちでも重要な要素とされ、色、質感などが重要である。光沢も重要であり、光彩を放つパールやラメが混入されていることがある。
保湿機能などが付加され、冬期の乾燥した環境下でも使用できる製品が開発されている。
夏期には紫外線防止効果のあるものも選ばれる。
今は口紅よりリップを使っている女性の方が多いような気がしますが。。
どうなんでしょうかね?
槙谷美貴子
2011年8月22日月曜日
槙谷美貴子とマニキュアの歴史
槙谷美貴子です。こんにちは。
今日槙谷美貴子はマニキュアの歴史について調べてみました。
マニキュア(manicure)とは化粧の一種。手の爪を塗装すること。また、それに用いる化粧品としての塗料のこと。美爪術、爪化粧ともいう。
足の爪に施す場合はペディキュアと呼んで区別する。
manicure (マニキュア)という言葉の語源は、ラテン語で「手」を意味する manus と「手入れ」を意味する cura が合わさったものである。つまり本来は「手の手入れ」という意味で、ネイルケア全般を指す語であった。 ちなみに「ペディキュア」も「足」を表すラテン語 pes(語幹 ped-) + cura が語源である。
爪に着色をする文化は古代エジプトにはすでにあったとされているが、現在のようなマニキュアが生まれたのは1950年代のアメリカで、自動車用などのラッカー塗料の発明と同時期である。
日本にも、平安時代に生まれ、江戸時代では爪紅(つまべに)と呼ばれており、ホウセンカの紅い汁を爪にこすりつけることが行われていた
槙谷美貴子もたまに気分転換がてらマニキュア塗りますね。
最近ではネイルアートにも興味を持っています。フレンチネイル可愛いですよね。
今日槙谷美貴子はマニキュアの歴史について調べてみました。
マニキュア(manicure)とは化粧の一種。手の爪を塗装すること。また、それに用いる化粧品としての塗料のこと。美爪術、爪化粧ともいう。
足の爪に施す場合はペディキュアと呼んで区別する。
manicure (マニキュア)という言葉の語源は、ラテン語で「手」を意味する manus と「手入れ」を意味する cura が合わさったものである。つまり本来は「手の手入れ」という意味で、ネイルケア全般を指す語であった。 ちなみに「ペディキュア」も「足」を表すラテン語 pes(語幹 ped-) + cura が語源である。
爪に着色をする文化は古代エジプトにはすでにあったとされているが、現在のようなマニキュアが生まれたのは1950年代のアメリカで、自動車用などのラッカー塗料の発明と同時期である。
日本にも、平安時代に生まれ、江戸時代では爪紅(つまべに)と呼ばれており、ホウセンカの紅い汁を爪にこすりつけることが行われていた
槙谷美貴子もたまに気分転換がてらマニキュア塗りますね。
最近ではネイルアートにも興味を持っています。フレンチネイル可愛いですよね。
2011年8月8日月曜日
ネットの歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。
今日槙谷美貴子はネットの歴史について調べました
○1960年、インターネットの前身ARPANETに直接影響を及ぼした概念であるJ・C・R・リックライダーのタイムシェアリングシステムが発表。
○1969年10月29日、UCLAとスタンフォード研究所(SRI)間で接続され、同年12月5日までにUCサンタバーバラ、ユタ大学が接続され4つのノードとなる。
○1983年、ARPANETがプロトコルをそれまで利用していたNetwork_Control_ProgramからTCP/IPに切り替える。
○1984年9月、村井純が慶應義塾大学と東京工業大学を接続。同年10月に東京大学が接続され、日本におけるインターネットの起源となる。(JUNET)
○1985年、アメリカの「全国科学財団」による学術研究用のネットワーク基盤NSFNetが作られ、インターネットのバックボーンの役割がARPANETからNSFNetへ移行する。
○1988年、アメリカで商用インターネットが始まる。1989年、商用ネットワークとNSFNetとの接続が開始される。
○1990年、スイスの素粒子物理学研究所・CERNの研究員であったティム・バーナーズ=リーは、当時上司だったロバート・カイリューらの協力によりWorld Wide Webシステムのための最初のサーバとブラウザを完成させる。
○1994年7月、アメリカ・タイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」という記事が掲載される。ARPANET立ち上げ時のIPTO責任者であったロバート・テイラーは、この記事に対して事実とは異なる旨、正式な抗議をタイム誌に対して行った。以降、ARPANETは核戦争時のための軍事ネットであるという俗説が流布するようになる。
○1995年には、NSFNetは民間へ移管され、Windows95の登場で一般個人でのインターネットの利用に加速がつく。なお、Windows95の初期バージョンではインターネット関連の機能は「Microsoft Plus!」による拡張機能とされていたが、OSR2以降は標準搭載されている。
以上、ウィキペディアより引用させていただきました。世界的に常時接続環境が提供されているのは都市部が中心で、地方や離島での情報格差が問題になっているそうですね。また、発展途上国では多くの国民にとって端末であるパソコンが高価であり通信料金も高いため、インターネットカフェがインターネットの普及を支えているのだそうです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
今日槙谷美貴子はネットの歴史について調べました
○1960年、インターネットの前身ARPANETに直接影響を及ぼした概念であるJ・C・R・リックライダーのタイムシェアリングシステムが発表。
○1969年10月29日、UCLAとスタンフォード研究所(SRI)間で接続され、同年12月5日までにUCサンタバーバラ、ユタ大学が接続され4つのノードとなる。
○1983年、ARPANETがプロトコルをそれまで利用していたNetwork_Control_ProgramからTCP/IPに切り替える。
○1984年9月、村井純が慶應義塾大学と東京工業大学を接続。同年10月に東京大学が接続され、日本におけるインターネットの起源となる。(JUNET)
○1985年、アメリカの「全国科学財団」による学術研究用のネットワーク基盤NSFNetが作られ、インターネットのバックボーンの役割がARPANETからNSFNetへ移行する。
○1988年、アメリカで商用インターネットが始まる。1989年、商用ネットワークとNSFNetとの接続が開始される。
○1990年、スイスの素粒子物理学研究所・CERNの研究員であったティム・バーナーズ=リーは、当時上司だったロバート・カイリューらの協力によりWorld Wide Webシステムのための最初のサーバとブラウザを完成させる。
○1994年7月、アメリカ・タイム誌で、「インターネットは核攻撃下でのコミュニケーションの生き残りを想定して開発された」という記事が掲載される。ARPANET立ち上げ時のIPTO責任者であったロバート・テイラーは、この記事に対して事実とは異なる旨、正式な抗議をタイム誌に対して行った。以降、ARPANETは核戦争時のための軍事ネットであるという俗説が流布するようになる。
○1995年には、NSFNetは民間へ移管され、Windows95の登場で一般個人でのインターネットの利用に加速がつく。なお、Windows95の初期バージョンではインターネット関連の機能は「Microsoft Plus!」による拡張機能とされていたが、OSR2以降は標準搭載されている。
以上、ウィキペディアより引用させていただきました。世界的に常時接続環境が提供されているのは都市部が中心で、地方や離島での情報格差が問題になっているそうですね。また、発展途上国では多くの国民にとって端末であるパソコンが高価であり通信料金も高いため、インターネットカフェがインターネットの普及を支えているのだそうです。
それでは今日はこの辺で。槙谷美貴子でした。
2011年8月1日月曜日
缶コーヒーの歴史と槙谷美貴子
槙谷美貴子です。こんにちは。
今日も色んなものの歴史についてお話させていただきます。今日は缶コーヒーについて。
缶コーヒーが出来る前は、コーヒーは駅などで瓶に入れて販売されており飲み終わったら瓶を返却していたみたいですね。しかし、創業者の上島忠雄さんは列車の発車に間に合わず飲み残しのまま売店に返却したことをひどく痛んで、何かいいものはないかと模索した中で加藤顕さんの「缶に入れてはどうか?」とのアイデアを生かし発売に至った…のだとか。
話によると、1980年までは250mg缶が主流だったそうです。その後、190mgは量が少なくしたことで美味しさをアピールしたことが受けたため、爆発的にヒットしたのだとか。それ以降どの会社でも缶コーヒーはショート缶という定説になったみたいですね。同じ頃、缶コーヒーの蓋の散乱が問題視されて飲み口が分離タイプの「プルタブ」から「ステイオンタブ」へ変更になります。
因みに、現在の販売量の順位は1位ジョージア、2位ボス、ワンダ、ファイアーとなっているみたいですよ。
今日も色んなものの歴史についてお話させていただきます。今日は缶コーヒーについて。
缶コーヒーが出来る前は、コーヒーは駅などで瓶に入れて販売されており飲み終わったら瓶を返却していたみたいですね。しかし、創業者の上島忠雄さんは列車の発車に間に合わず飲み残しのまま売店に返却したことをひどく痛んで、何かいいものはないかと模索した中で加藤顕さんの「缶に入れてはどうか?」とのアイデアを生かし発売に至った…のだとか。
話によると、1980年までは250mg缶が主流だったそうです。その後、190mgは量が少なくしたことで美味しさをアピールしたことが受けたため、爆発的にヒットしたのだとか。それ以降どの会社でも缶コーヒーはショート缶という定説になったみたいですね。同じ頃、缶コーヒーの蓋の散乱が問題視されて飲み口が分離タイプの「プルタブ」から「ステイオンタブ」へ変更になります。
因みに、現在の販売量の順位は1位ジョージア、2位ボス、ワンダ、ファイアーとなっているみたいですよ。
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